ドイツ軍進撃停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
バストーニュから西に向かったドイツ軍のなかで第5装甲軍の第2装甲師団は劇的な進撃を遂げて、12月23日には先行の偵察部隊はミューズ川からわずか9kmのセル村(英語版)に達し、翌日には戦車大隊も合流した。しかし、各地で連合軍の増援が到着しており、第2装甲師団の進撃はここで食い止められ、セルがドイツ軍による最も西への進出地点となった。その後は進撃してきた連合軍部隊と各方面で激戦に突入した。同日12月24日にはフレヌー(フランス語版)で第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のパンターと第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4が激突し、ドイツ軍側は騎士鉄十字章を受賞したドイツの戦車エースフリッツ・ランガンケ少尉が率いていたものの、パンター8輌が撃破もしくは損傷したのに対し、撃破したM4はたった1輌と戦闘はドイツ軍の惨敗でフレヌーから撃退されている。このようにドイツ軍快進撃を支えてきた戦車戦におけるドイツ軍の優位も失われてきていたが、ランガンケは撤退中に、戦闘に気が付かず無警戒で接近してきた第9機甲師団のM4を奇襲で4輌撃破して一矢を報いている。 セルまで達した先行部隊も、12月24日にはミューズ川を渡河して進攻してきたイギリス軍第3王立連隊とアメリカ軍第2機甲師団(英語版)と接触して全面的な戦闘に突入した。第2装甲師団と一団となって進撃していた装甲教導師団はロシュフォール(ナミュール州)(英語版)で、第84歩兵師団(英語版)の1個大隊他の激しい防衛にあい、どうにか攻略できたものの進撃が停止しており、第116装甲師団もホットン(英語版)で第84歩兵師団に足止めされて、その後に第3機甲師団(英語版)に捕捉された。第2装甲師団は包囲網の突破を試みたが失敗に終わり、燃料が欠乏した第2装甲師団にアメリカ軍第2機甲師団は情け容赦なく襲い掛かり、戦車82輌と火砲83門、各種車両400輌が撃破されるか鹵獲され、1,200人のドイツ軍将兵が投降し壊滅状態となったが、第2機甲師団が失ったM4はわずか26輌に過ぎなかった。第2装甲師団の残った将兵も、救出の見込みもなかったことから装備を捨てて小部隊に分かれて退却を開始したが、そのなかには12月25日の戦闘で重傷を負ったドイツ軍戦車エースの1人エルンスト・バルクマンもいた。 装甲教導師団は第2装甲師団を救出するため、ロシュフォールに一部の部隊を第2装甲師団の突出部へと向かったが、ホーカー タイフーンとP-38の空襲によって前進を阻止されている間に第2装甲師団は既に潰走を始めており、装甲教導師団もそのままバストーニュ方面に向けて撤退を開始した。ロシュフォールに残されたティーガーⅠを含む十数輌の戦車と500人以上の兵員は、1月3日から開始されたイギリス第5空挺旅団(英語版)とのブレの戦い(英語版)で壊滅し、ロシュフォールもイギリス軍に奪還されている。この頃にはドイツ軍は無線封鎖を解除していたため、連合軍の情報部は容易にドイツ軍の位置を割り出して、的確に反撃することができるようになっており、空襲による損害も激増していた。ドイツ軍司令官たちは戦闘の主導権を失っていることを認識しており、ミューズ川を渡河して西進するという作戦目標を諦めて、残存兵力をもってミューズ川の東にいる連合軍を粉砕するといった戦略の修正をヒトラーに求めた。ヒトラーは一時的に攻勢を川の東側に限定することは渋々了承したものの、戦闘の主導権を奪還でき次第、アントワープへの進撃を再開することを命じている。
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