バストーニュとは? わかりやすく解説

バストーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:15 UTC 版)

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Bastogne
位置

リュクサンブール州におけるバストーニュの位置
座標 : 北緯50度00分00秒 東経05度43分00秒 / 北緯50.00000度 東経5.71667度 / 50.00000; 5.71667
行政
ベルギー
 地域 ワロン地域
 州 リュクサンブール州
Bastogne
市長 フィリップ・コラール
地理
面積  
  域 172.03 km2
標高 515 m
人口
人口 (2008年1月1日現在)
  域 14 577人
公式ウェブサイト : www.bastogne.be

バストーニュフランス語:Bastogne、ドイツ語:Bastnach、ルクセンブルク語:Baaschtnech、オランダ語:Bastenaken)は、ベルギーリュクサンブール州の都市。アルデンヌ高原にあり、ルクセンブルク大公国の国境とは12kmしか離れていない。バストーニュは、かつてコミューンであったロングヴィリ、ノヴィル、ヴィラール・ラ・ボンヌ・オー、ワルダンを含む。

また、バストーニュとは、ワロン語地域で作られる、シナモンと黒砂糖のかかったビスケットの一種の名称でもある。

歴史

ローマがこの地を征服したとき、ガリアの一部族トレウェリ族(Treveri)が住んでいた。バストーニュの名が歴史上に登場したのはさらに遅く、634年にこの地の封建領主がトリアー近郊の聖マクシミン修道院に領地を割譲し寄進したときである。1世紀後、バストーニュはプリュム修道院の辺りにあった。再びバストーニュの町と市場が触れられるのは887年の文書においてである。13世紀より神聖ローマ皇帝ルクセンブルク伯ハインリヒ7世は、バストーニュで硬貨を鋳造していた。1332年、その息子ヨハン・フォン・ルクセンブルクはバストーニュに市憲章を授け、城壁で取り囲んだ。その際に築かれたトレーヴ門は現在も残っている。1451年、ルクセンブルク伯領はブルゴーニュ公国へ併合され、1516年にブルゴーニュ公の後継者たるシャルル(神聖ローマ皇帝カール5世)がスペイン王位につくと、以後はスペイン・ハプスブルク家領となった。

都市の城壁は戦乱の時代に困難から守り、非常に効果的であった。都市の経済は農業とウシの飼育で名高く、繁栄した。1602年、バストーニュの城壁はオランダ共和国軍の攻撃を退けた。九年戦争中の1688年、バストーニュはフランス軍に占領され、ルイ14世はバストーニュの城壁を取り壊すよう命じた。

19世紀のベルギー独立で、バストーニュはその森林からの産物とウシ市で外国に知られ、経済は順調であった。近郊の自治体とバストーニュをつなぐ鉄道が敷かれた。この繁栄は、第一次世界大戦でドイツに占領されたことで全て終わりを告げた。

第二次世界大戦

1944年終わりに連合国に解放された後、バストーニュは再びドイツ軍に攻撃された。ヒトラーがアルデンヌ高原を手中に置こうとしたのである。目標はアントウェルペンで、米英を分断し供給を断つことにあった。寒く霧の発生を好機とし、12月16日、ドイツ歩兵隊はバルジの戦いで、バストーニュ周辺にまばらに配備されたアメリカ軍を攻撃し始めた。一時はドイツがバストーニュを包囲し、劣勢に立ったアメリカ側にドイツが降伏を迫ったところ、アンソニー・マコーリフ将軍は短く「ふざけるな!」(Nuts!)答えた。12月26日、ジョージ・パットン指揮のアメリカ軍がこの行き詰まりを打破した。

みどころ

  • トレーヴ門 - 14世紀につくられた城壁の一部
  • サン=ピエール教会とロマネスク様式の塔
  • マルダッソン・メモリアル - バルジの戦いによるアメリカ軍兵士をたたえるためつくられた。

交通

  • 道路 - 欧州自動車道路E25、ベルギー国道4号線
  • 鉄道 - ベルギー国鉄の163号線と164号線

外部リンク


バストーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:55 UTC 版)

装甲教導師団」の記事における「バストーニュ」の解説

12月18日に、攻勢進行中へと復帰した。第26国民擲弾兵師団英語版)はクレルベ川(英語版)に架かる確保し、バストーニュの道路・鉄道集束地に至る経路開いた装甲教導師団装甲偵察大隊は、ヴィルツ(英語版)の方面攻撃仕掛けながら急ぎ前進し次いでバストーニュに至る経路師団に再合流した。馬による牽引用いていた第26国民擲弾兵師団装甲教導師団隊列混ざり合い、その進撃大い遅らせた12月19日師団装甲連隊はヌッフ(フランス語版近くで、アメリカ軍10機甲師団英語版傘下チェリー戦闘部隊が守る路上遮蔽行き当たった当初成功に続く、装甲教導師団余勢駆った攻撃大きな損失を出す結果となったチェリー戦闘部隊後退し、バストーニュへの道が再び開かれたしかしながら師団装甲兵力の大部分は北のマジュレ(フランス語版)へ、第26国民擲弾兵師団援護するために送られていた。マジュレを占拠した後、ある地元民師団指揮官のバイエルラインへ、およそ50輌のアメリカ軍戦車と歩兵部隊からなる隊列が、ロンヴィリー(フランス語版)へ向かうところを目撃されたと知らせた。バイエルラインは配下の部隊停止して路上遮蔽を築くよう命じ配下部隊再集結させて再編成を行う機会設けた装甲教導師団が再び行動開始し、バストーニュの街に達した頃には、アメリカ軍第101空挺師団愛称「スクリーミング・イーグルス(叫ぶ)」)が既に当地確保していた。装甲教導師団次いで分割を受け、師団半分残留して26国民擲弾兵師団によるバストーニュ奪取支援し装甲兵力の大半を含む師団のその他は、マース川への前進続けることになった。 続く数日間で、大半が第901装甲擲弾兵連隊から構成され、第26国民擲弾兵師団援護する戦闘団は、バストーニュの街への継続的な攻撃の中で消耗していった。師団のその他は東へ急ぎながら、アメリカ軍大規模な輸送隊捕捉するなどいくつかの小さな成功享受したものの、サン・テュベール(英語版近傍厳し抵抗遭って停止態となり、じきにバストーニュの南方激し戦闘巻き込まれた。12月21日マントイフェルはバストーニュを巡る戦闘から装甲教導師団引き揚げて、ディナンマース川への強襲のため、第2装甲師団や第116装甲師団ウィンドハンド(英語版)と集団形成させた。

※この「バストーニュ」の解説は、「装甲教導師団」の解説の一部です。
「バストーニュ」を含む「装甲教導師団」の記事については、「装甲教導師団」の概要を参照ください。

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