第101空挺師団の急行
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「バストーニュの戦い」の記事における「第101空挺師団の急行」の解説
ドイツ軍の攻勢が始まる数週間前、いろいろな情報があったにも関わらず、ドイツ軍の奇襲は成功していた。戦闘が開始して2日目にはアメリカ第28歩兵師団は崩壊の危機に瀕していた。アメリカ第VIII軍団司令官(トロイ・H・ミドルトン)は予備戦力である第10機甲師団のB戦闘団を支援にまわした。一方、ドワイト・D・アイゼンハワーも連合軍最高司令部(SHAEF)の予備戦力を投入することを命令、投入される部隊は、ランスに駐屯していたアメリカ第82空挺師団と第101空挺師団から形成された。彼ら空挺部隊はノルマンディー上陸作戦で優秀な結果を残した経験豊富な部隊であり、オランダでの戦闘後、2ヶ月間の再編成期間中であった。両師団は12月17日夕方、待機態勢を取り、救援のためにトラックを手配し始めた。より長い再編成期間を経て、装備も充実していた第82空挺師団が先発し、そして第101空挺師団は12月18日午後、駐屯地ムルムロン (Mourmelon)を出発した。輸送隊列は夜でなおかつ、霙交じりの霧雨の中、空爆の恐れがあるにも関わらず、急ぐためにヘッドライトを点灯して走行した。そして、一部部隊は一度、ランスへ戻ってから、ベルギーのブイヨン(Bouillon)へ移動した。第82空挺師団がウェルボモン(Werbomont)へ向かうドイツ軍のパイパー戦闘団を食い止めるために、北方へ移動している間、第101空挺師団はバストーニュ(ランスから172kmで海抜445mの位地にある)に向かった。アメリカ第705戦車駆逐大隊はバストーニュ北方約100km地点に居たが、18日、装甲戦力が無い第101空挺師団を援護するよう命令され、翌晩遅くに到着した。第501パラシュート連隊の先遣隊は12月19日深夜、バストーニュ西6.5kmの集合地区に到着、翌9時、連隊全体が到着した。 第101空挺師団師団長代理アンソニー・マコーリフは状況を確認するために、午前6時、第501パラシュート連隊を東へ向かわせた。午前9時、部隊は道路両側へ展開した。そこではドイツ軍装甲教導師団がアメリカ軍の歩兵、駆逐戦車のチームを撃破するために一日中、攻撃を仕掛けていた。第506パラシュート連隊(英語版)も後に続き、バストーニュ北部のノヴィル(Noville)で第1大隊が防御戦を行い、残り2個大隊は予備とされた。第501パラシュート連隊はシャンプ(Champs)からレコン(Recogne)までの線を確立するために北、北西へ移動した。一方、ドイツ軍の意図が推測できるまで、新たに到着した第327グライダー連隊はバストーニュ西の防衛を任された。
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