第101空挺師団到着
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「バルジの戦い」の記事における「第101空挺師団到着」の解説
増援を命じられた第18空挺軍団の2個師団のうち、先行した第82空挺師団がパイパー戦闘団の急進撃に対応するため北部の要衝ウェルボモン(フランス語版)に派遣され、第101空挺師団がバストーニュに送られた。増援の命令を受けたとき、第101空挺師団長マクスウェル・テイラー少将はアメリカ本国に帰国中で、副師団長と多くの師団幕僚は打ち合わせのためイギリスにおり、部隊にいたのは師団砲兵指揮官のアンソニー・マコーリフ准将だけであった。一刻を争うため、マコリーフは急遽師団長代理を任じられると、380輌のトラックに分乗した第101空挺師団将兵を率いてバストーニュに向かっている。もっとも先行した第501空挺歩兵連隊は出発した12月18日中の真夜中にバストーニュに到着し、他の3個連隊も翌朝9時までにはすべて到着した。 バストーニュには第101空挺師団の他に、第10機甲師団のB戦闘部隊と第28歩兵師団の残存部隊と第8軍団の予備戦力が配置されていたが、第10機甲師団のB戦闘部隊は、第8軍団長ミドルトンの命令で3隊に分割され、バストーニュに通じる道路上の拠点に配置されていた。ヘンリー・チェリー中佐率いるチェリー隊にはロンヴィリー(フランス語版)、ジェームズ・オハラ中佐率いるオハラ隊にはワルディン(フランス語版)、ウィリアム・デソブリー少佐率いるデンブリー隊にはノーヴィル(フランス語版)を守らせていた。また、第8軍団の予備戦力のなかには第705駆逐戦車大隊(英語版)の新鋭駆逐戦車M18ヘルキャットもいた。M18ヘルキャットは貫通力に優れる長砲身の76㎜砲を搭載し速度もドイツ軍のどの戦車より速く、今までドイツ軍の戦車に苦戦してきたアメリカ軍にとって大きな戦力になると期待された。また、M59 155mmカノン砲(通称ロング・トム)2個大隊も合流しており、その長射程で防衛線のどの場所にも支援砲撃ができるようになっていた。 休む間もなくマコーリフはバストーニュの孤立化を防ぐため、周囲の拠点の防衛に積極的に部隊を派遣した。バストーニュ北方のノーヴィルではデンブリー隊が守りについていたが、12月19日午前4時に西方に向かって進撃していた第2装甲師団主力が攻撃してきた。デンブリー隊のM4戦車15輌と1,000人の兵力に対して、第2装甲師団は80輌の戦車と7,000人の兵員を擁しており、マコーリフは第506空挺連隊の第1大隊を救援に向かわせ、同時に第705駆逐戦車大隊のM18駆逐戦車4輌も支援に向かっている。デンブリー隊は圧倒的な第2装甲師団に対して、立ち込めていた濃霧の助けもあってどうにかノーヴィルを確保していたが、強力なドイツ軍の戦車に2輌のM4が撃破されるなど苦戦していた。そこにM18が救援に到着し、霧の晴れ間を見てドイツ軍戦車を砲撃し9輌を撃破して撃退した。その後に到着した第506空挺連隊第1大隊とデンブリー隊は第2装甲師団と何度も攻守を変えて激戦を繰り広げた。昼過ぎには16輌の戦車に支援された装甲歩兵1個大隊がノーヴィル市街に突入してきたが、空挺兵はバズーカで応戦、大損害を被りながらも戦車5輌を撃破してドイツ軍の攻撃を再度撃退した。その後も第2装甲師団は数輌の戦車に歩兵を随伴させて断続的に攻撃を繰り返し、市街でM4やM18との戦車戦が行われた。戦闘は夜を徹して行われた激しいものとなったが、激戦の中でティーガーⅠ戦車の88㎜砲が戦闘指揮所に着弾し、第506空挺連隊第1大隊長ジェームズ・ラプラード中佐が戦死し、デンブリー隊指揮官ウィリアム・デソブリー少佐も重傷を負った。圧倒的な第2装甲師団に対して寡兵で善戦を続けるノーヴィル守備隊であったが、第8軍団長のミドルトンはバストーニュの孤立を防ぐためとして、ここでも死守命令を出した。しかし、バストーニュとノーヴィルの中間にあるフォイ村(英語版)がドイツ軍に奪われ、ノーヴィルが孤立化する懸念が高まったため、翌12月20日にマコリーフはノーヴィル守備隊に撤退とフォイの奪還を命じ、支援に第506空挺連隊第3大隊を送った。フォイはノーヴィルとバストーニュからの攻撃で奪還したが、一連の戦闘で第506空挺連隊は212人の死傷者を出し、デンブリー隊は15輌のM4のうち11輌を撃破され、第704駆逐戦車大隊のM18は4輌すべて撃破されていた。一方でドイツ軍は30輌の戦車が撃破され800人の死傷者を被り、第2装甲師団は2日も足止めされた。 装甲教導師団はチェリー隊と第9機甲師団B戦闘部隊のわずかな生き残りが守備するロンヴィリーに向かって進撃していた。師団長のフリッツ・バイエルライン中将はアメリカ軍の退路を断つため、前衛部隊をロンヴィリーの背後のマゲレット(フランス語版)に前進させていた。チェリー隊は戦力を3分割してロンヴィリーの守りについていたが、背後のマゲレットに装甲教導師団が迫っていると聞くと、慌ててその迎撃に向かった。しかし、ドイツ軍の戦力が強大であると判明すると迎撃を諦めて第9機甲師団の生き残りと共に、第10機甲師団B戦闘部隊の戦闘指揮所があるネッフェ(フランス語版)に撤退することとし、その殿をハイデューク中尉率いるM4とM3軽戦車合計17輌と戦車と同数のM3ハーフトラックに任せたが、ハイデューク隊が撤退する前に装甲教導師団の本隊が襲い掛かった。激しい準備砲撃とその後の第559戦車駆逐大隊ヤークトパンターの攻撃で、17輌の戦車とハーフトラックは全滅し、ロンヴィリーは装甲教導師団に攻略された。次に装甲教導師団はオハラ隊が守るワルディンにも進撃したので、マコーリフは1個中隊を増援に送ったが、市街に入る前の路上で装甲教導師団の戦車と遭遇して戦闘となり壊滅的な損害を受けた。オハラ隊も出撃したがドイツ軍戦車を捕捉することができなかったので、そのままネッフェ方面に撤退し、ワルディンも装甲教導師団に占領された。 チェリー隊が撤退したネッフェにもマコーリフは第501空挺連隊から抽出した1個大隊を基幹とする増援を送り込んだ、増援の空挺部隊はチェリー隊と協力して装甲教導師団の進撃を撃退したが、空挺部隊が配備していたM101 105mm榴弾砲の特殊な発射音を聞いた装甲教導師団は戦車砲の発射音と誤認し、アメリカ軍の戦車隊の増援が到着したとして進撃を停止してしまった。師団長のバイエルラインはロンヴィリーを攻略したのち一気に第47装甲軍団全軍を持ってバストーニュを攻略すべきと軍司令官のマントイフェルに進言していたが、西方への進撃が主目的として進言は却下されていた。そのため、バイエルラインは無理をしてまでバストーニュに接近する必要はないと判断し、一旦進撃を停止したのであるが、この時点ではバストーニュの防備は固まっておらず、のちにマントイフェルはバストーニュ攻略の好機を逃したと後悔することになった。
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