ドイツ軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:36 UTC 版)
「タンネンベルクの戦い (1914年)」の記事における「ドイツ軍の攻勢」の解説
26日の朝、ロシア第1軍はケーニヒスベルクへの西進を開始した。このときドイツ軍の大半はすでにロシア第2軍に対処するため南へと移動していた。ロシア軍の動きとドイツ軍の動きを埋めるにはまだいくらかの時間があり独騎兵第1師団が防衛拠点での遅滞戦術を展開していた。この26日がドイツ第8軍の作戦計画全体において最も重要な一日だと考えられている。ヒンデンブルクは計画の続行を決断した。 ロシア第2軍の右翼を形成する第6軍団は独第17軍団および第1予備軍団と接触し、南東に押し込まれつつあった。27日にはフランソワの第1軍団がロシア第2軍の左翼・精鋭のロシア第1軍団に大量の重砲を打ち込み壊走させることに成功した。中央部の戦闘はロシアが優勢であり独第20軍団は押し込まれつつあった。しかしロシアの前進が成功したのは中央のみであった。ルーテンドルフは苦戦している中央部の戦いを援助するため独第1軍団に訓令を発出したが、フランソワには別の考えがあり露第1軍団を追撃し、そのまま東進した。 中央部右翼に配置された露13軍団は有力な敵に遭遇することなくオルシュティンへと進軍したが、後詰めとなるはずの第6軍団がすでに壊走しており、サムソノフは露13軍団に対してオルシュティンを放棄し、中央部の戦線を支援するように命じた。この命令が達成されたときロシア第2軍の大半が戦線の中央部におり露15軍団、23軍団の一部であった。 8月28日の夕方、ロシア軍が危機的な状況が極限にまで達していることは明らかであった。ロシアは右翼にいた露第6軍団と左翼にいた第1軍団がそれぞれ退却し、一方中央部は深刻な補給物資の不足に陥っており、もはやこれ以上攻勢を続けることは不可能であった。サムソノフに許された事は国境まで軍を引き、そこで態勢を立て直す事を試みる事であった。またサムソノフはレンネンカンプにケーニヒスベルクへの前進を放棄して南西の支援へと向かう様に要請した。 しかしフランソワはこの時既に東へと進軍し、ロシア軍の退却路である南に戦線を形勢していた。北部の独第17軍団は南下しつづけていた。翌日ロシア軍の中央部は軍の再編成中にこれらの軍と交戦し、包囲されている事に気付いた。タンネンベルク東に形成された包囲網は29日までの間徹底的に砲撃に晒された。 ロシア第1軍が救助に向かおうと試みたときには既に大勢は決していた。独第1騎兵師団が解囲を阻止するための盾となり、この戦闘が終わった時解囲部隊はロシア第2軍の包囲網から70km離れた地点までしか進めなかった。 8月30日ロシア第2軍はフロゲナウ近くの湖沼地帯で壊滅し、92,000人が捕らえられ、78,000人が死傷し、わずか10,000人が逃れることができた。60の列車がロシアの捕虜をドイツに送るために使われた。サムソノフは逃走したが、ニコライ2世に第2軍の壊滅を報告するより拳銃自殺を選び29日に死亡していた。一方ドイツの損害は150,000人の内、12,000人程度であった。 ヒンデンブルクは「タンネンベルク村近くで勝利」という内容の至急電を送り、タンネンベルクの戦いとして世に知られるようになった。 ロシア第2軍が包囲殲滅された地としてのちen:Olsztynekの近くに戦勝記念モニュメントが建設され(en:Tannenberg Memorial)、1935年10月にヒンデンブルク大統領の国葬が行われるなどナチスの恰好の宣伝材料とされた。ここはタンネンベルク村(第二次世界大戦後は、ポーランド領ステンバルク村)から北東20kmに離れていた場所である。
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