ドイツ軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
ヒトラーは戦況を挽回するため、戦力を集結しバストーニュへの総攻撃を命じた。北部で完全に行き詰っていた第6SS装甲軍の「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」および「ヒトラーユーゲント」両師団を含む4個師団の残存兵力をマントイフェルの指揮下に入れ、まずは第3軍の突進で破られた包囲網を修復し、その後に一気にバストーニュを攻略する計画であった。一方で第3軍もドイツ軍の進出部(バルジ)の北方から進攻してくるモントゴメリー率いる第21軍集団と連結しドイツ軍を包囲殲滅するため、バストーニュから北東向けて進撃を開始した。奇しくも攻撃のため進撃していた両軍は12月30日に接触してそのまま戦闘に突入した。1月3日から1月4日にかけて、アメリカ軍の第3軍と第101空挺師団、ドイツ軍の第5装甲軍、第6SS装甲軍8個師団との間で最大の激戦となったが、ついにドイツ軍はバストーニュを攻略することはできず、1月5日には北方から進撃してきたモントゴメリーの第21軍集団に備えるためにバストーニュ地域からの撤退を開始した。 同日、東部戦線でソ連軍が大兵力を集結しつつあるという情報を入手したB軍集団司令官モーデルが、西方総軍司令官のルントシュテットにアルデンヌからの撤退と東部戦線への戦力移動を要請、ルントシュテットにも異存はなく、1月7日にヴォルフスシャンツェにヒトラーを訪ねて、戦車戦力のみでも東部戦線への移動を進言した。前回の撤退要請は拒否したヒトラーであったが、さすがに今回については「これは西部戦線の縮小ではなく“戦略的後退”である」として、戦車だけではなく第5装甲軍と第6SS装甲軍全軍の撤退を許可し、翌1月8日にヒトラーが全軍に向けて下令した。 撤退を開始したドイツ軍は防御態勢に入ったが、この頃から天候が悪化して、東部戦線で冬季戦の経験を積んでいたドイツ兵の頑強な抵抗に第3軍の進撃は停滞した。今まで強気であったパットンも捗らない進撃に弱気となって「ドイツ軍は我々より、確かにひもじく、寒く、弱いはずなのに、連中はいぜん、素晴らしい戦いぶりを見せている」と嘆いている。弱気となっていたパットンは、汚名返上に躍起となっているブラッドレーが提案してきた、ドイツ軍の撤退の拠点のウーファリズ(英語版)を攻略する「粉砕作戦」を受け入れて実行したが、1月8日に開始された作戦では1日にわずか3㎞しか進撃できず、その間にもドイツ軍の撤退は進んだ。その後パットンはブラッドレーの作戦干渉を跳ね除けながら進撃を続けて、1月16日にようやくウーファリズに到達してドイツ軍の進出部(バルジ)を北から攻撃していたモントゴメリーと連結したが、ドイツ軍の残存部隊の大半はこの包囲網が完成する前にその東側(ドイツ本土側)に撤退を成功させており、多くの部隊がソ連軍の冬季大攻勢に対応するため東部戦線に送られていた。1月23日にはサン・ヴィトを奪還したが、先頭で市街に突入した部隊はちょうど1か月前にこの街から撤退させられたクラーク率いる第7機甲師団B戦闘部隊であった。そして、1月28日に「バルジの戦い」が終了したことが公式に表明された。
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