戦争中期
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「フリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ」の記事における「戦争中期」の解説
フォン・デア・ハイテは1942年7月から1943年1月まで東部戦線に従軍した後、降下猟兵教導大隊の指揮官として北アフリカ戦線へ移った。彼は第二次エル・アラメイン戦の後、ドイツ軍の撤退中にイタリア軍の戦車師団が壊滅する様を目にした事を回想の中で述べている。
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戦争中期
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8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動し、ガダルカナル島とツラギ島を急襲して占領した。11日、第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、戦艦陸奥、第四水雷戦隊(軽巡由良、第9駆逐隊《朝雲、峯雲、夏雲》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》等)は呉を出港してトラック島泊地へ進出、ガダルカナル島の戦いに加わった。24日、第二次ソロモン海戦に前進部隊として参加する。摩耶は前日に行方不明になっていた由良偵察機を収容。その後にアメリカ軍艦載機20機の空襲を受けるが、摩耶に損害はなかったものの、同航していた水上機母艦千歳が損傷を受けた。9月9日、索敵のため第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第八戦隊(利根、筑摩)、第四水雷戦隊(由良等)と共にトラック泊地を出撃。13日には第三戦隊(金剛、榛名)と合流する。14日、ガダルカナル北東200浬の地点で前進部隊はB-17爆撃機の空襲を受け、妙高は戦死者2名を出した。特に戦果もないまま、各艦は23日にトラック泊地へ帰港した。10月15日夜、第五戦隊の重巡洋艦妙高、第二水雷戦隊(軽巡五十鈴、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》)と共にガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦に参加し、砲撃に成功。妙高は20cm主砲463発、摩耶は450発を発射した。10月26日、南太平洋海戦に参加。近藤信竹中将の前衛艦隊に所属して敗走する米機動部隊を追撃し、大破した米空母ホーネット(USS Hornet, CV-8) を捕捉し、ホーネットの撃沈に貢献した。30日、トラックに帰港した。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月、摩耶は外南洋部隊支援隊に編入され、5日、ショートランド諸島(ショートランド泊地)に進出する。12日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かった第十一戦隊(戦艦比叡、霧島)以下挺身攻撃隊(挺身艦隊)が米巡洋艦部隊(指揮官ダニエル・J・キャラハン少将)と遭遇し、第三次ソロモン海戦が勃発した。12日-13日、日本海軍は比叡、駆逐艦2隻(夕立、暁)を喪失してしまう。これを受けて連合艦隊(司令長官山本五十六大将)は外南洋部隊支援隊指揮官西村祥治第七戦隊司令官にヘンダーソン飛行場砲撃を命じた。11月13日午前5時40分、七戦隊司令官西村少将が率いる重巡2隻(鈴谷、摩耶)、軽巡天龍、駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、朝潮)はショートランド泊地を出撃。同日深夜にガダルカナル島海域へ突入し、重巡2隻(鈴谷、摩耶)は飛行場砲撃を敢行、警戒部隊(天龍、夕雲、巻雲、風雲、朝潮)はアメリカ軍魚雷艇から重巡2隻を護衛した。14日、戦場からの離脱中にアメリカ軍の空襲を受け、重巡衣笠が沈没し、重巡鳥海、軽巡五十鈴も被弾した。午前11時頃、F4Fワイルドキャットが摩耶の左舷高角砲甲板に体当たりし火災が発生したとするアメリカ軍の記録によれば、空母エンタープライズから発進したSBDドーントレス急降下爆撃機2機(フーガーヴァーフ少尉機、ハローラン少尉機)は、日本艦隊の全貌を見ていた。炎上した衣笠の周囲に2隻の駆逐艦がおり、軽巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が衣笠の15km西、重巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が衣笠の20km南西を西に向かっていた。フーガーヴァーフ少尉機は重巡洋艦を爆撃したが至近弾となった。ハローラン少尉機は行方不明となり、フーガーヴァーフ少尉機は1隻の巡洋艦から激しい煙が上がるのを目撃した。本戦闘により魚雷16本を投棄し、沈没を免れるも38名が戦死、47名が負傷している。応急修理の後、トラック泊地に帰投。戦艦大和の傍では、一万トン級重巡洋艦の摩耶とは親子ほどの違いがあったという。1943年(昭和18年)1月5日に日本へ戻った。 1943年1月30日、「摩耶」は北方部隊に編入された。「摩耶」は2月20日に横須賀を離れ、2月22日に大湊で第五艦隊司令長官の旗艦となり、2月27日に幌筵に進出(または2月26日に幌筵に入港)。3月4日、「那智」が幌筵に到着し、旗艦となった。アッツ島への輸送に従事していた「あかがね丸」が2月20日にアメリカの水上艦艇により撃沈されたことから、北方部隊ではその大半を投入して輸送船団の護衛を行うこととした。3月7日、アッツ島への輸送を行う第二十一船団(イ船団)とその護衛、続いて「那智」、「摩耶」などからなる北方部隊の主隊および掩護部隊が幌筵海峡を出撃。3月10日に船団はアッツ島に到着し、10月13日に全部隊が幌筵海峡に帰投した。 続いて、再び船団護衛のため出撃。3月27日、第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将指揮の元、重巡2隻(那智、摩耶)、軽巡洋艦2隻(多摩、阿武隈)、駆逐艦4隻(第21駆逐隊《若葉、初霜》、第6駆逐隊《雷、電》)と共にアメリカ艦隊(指揮官チャールズ・マクモリス少将:重巡1、軽巡1、駆逐艦4)と交戦した(アッツ島沖海戦)。摩耶は接近するアメリカ巡洋艦と遠ざかるアメリカ巡洋艦を取り違えた上に、高角砲のためのデータを主砲砲術長に送り、さらに残弾があったにも関わらず全弾撃ち尽くしたと勘違いするという失態を犯した。主砲弾904発、魚雷8本を消耗したが、アメリカ艦隊の追撃に失敗した。 幌筵海峡への帰投後、3月31日に「那智」、「摩耶」などは整備のため横須賀へと向かった。「摩耶」は5月15日に横須賀を出港し、一時座乗した第五艦隊司令長官による哨戒線の視察の後、5月19日に大湊に着いた。 7月のキスカ島撤退作戦には、燃料消費の観点から参加していない。8月に横須賀に帰港し、9月15日、南方戦線に向かった。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 1943年(昭和18年)11月上旬、『ろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)』に呼応してブーゲンビル島上陸作戦を支援するため、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦「愛宕」)が指揮する第二艦隊の重巡洋艦7隻(愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩)、軽巡洋艦1隻(能代)、駆逐艦4隻(玉波、涼波、藤波、早波)からなる艦隊はラバウルに入港した。5日、第38任務部隊(米空母サラトガ、プリンストン基幹)によるラバウル空襲に遭遇した。9時30分、摩耶のカタパルト付近に被弾、左舷機関室が損傷し、火災も発生した。五番砲塔の弾庫では機械室の火災のため温度が上昇し、注水処置がとられた。機関部員が艦上部に脱出するなど、一時は艦放棄の可能性もあったが、辛うじて免れることができた。摩耶では戦死70名、負傷者60名を出した。他艦がトラックへ引き揚げるなか、摩耶は航行不能のためラバウルに残った。烹炊所が爆撃で破壊されたため、主計科は後甲板に行軍釜を据え付けて乗組員に食事を提供している。ラバウルでは連日摩耶を狙って空襲があり、陸上部隊からは「出港を急げ」と催促されたという。応急修理の結果一軸運転可能となり、11月11日にラバウルを出発。12ノットくらいで進み、13日には潜水艦から雷撃されたが回避した。摩耶及び潜水母艦長鯨は、第二水雷戦隊と第十戦隊の合同部隊(能代、早波、藤波、五月雨、風雲、若月)に護衛されていた。12日、軽巡阿賀野が米潜水艦スキャンプの雷撃で航行不能となった。第二水雷戦隊(能代、藤波、早波)は摩耶護衛を中断し、第十戦隊(阿賀野、浦風)の救援に向かった。11月14日、摩耶、長鯨、護衛駆逐艦(五月雨、風雲、若月)はトラックに帰港する。15日、杉山六蔵艦政本部長は損傷各艦を視察し、摩耶の横須賀回航と大修理が決定した。工作艦明石の協力下、トラック在泊中の第一戦隊、第二戦隊、第三戦隊、第四戦隊各艦は工作兵を摩耶に派遣し、応急修理は25日に終わった。 11月30日、瑞鳳の艦長が指揮する空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡摩耶、第7駆逐隊(曙、漣)、第17駆逐隊浦風はトラックを出発して内地へ向かうが、航海中に冲鷹が米潜セイルフィッシュの雷撃で撃沈された。駆逐艦2隻(浦風、漣)は艦隊から分離して冲鷹生存者を救助した。12月4日、摩耶は横須賀に帰投する。その後、修理と共に三番砲塔を撤去して四〇口径八九式十二糎七高角砲2基を増設するなど、対空兵装強化の改装を受けた(上述参照)。改造は1944年(昭和19年)4月9日に完了した。 1944年4月22日、摩耶と戦艦大和は駆逐艦島風、早霜、雪風、山雲に護衛され瀬戸内海を出撃した。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめ平郡島へ戻り、同様に早霜は横須賀に向かう。大和隊は4月26日マニラ着、29日出発。5月1日にリンガ泊地に進出。14日、タウイタウイ泊地へ前進した。6月19-20日のマリアナ沖海戦に栗田中将指揮する第二艦隊(前衛部隊、旗艦《愛宕》)に所属して参加する。6月20日17時30分、右舷至近弾により若干の被害を受け、また左舷への至近弾で舷側バルジに浸水し2度傾斜した。16名が戦死し、40名が負傷。横須賀に戻り、損傷修理と並行して出火対策と対空装備の強化が行われた(上述参照)。7月16日出港、リンガ泊地に進出した。
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