戦争中の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)
「日露戦争」も参照 提理部がダルニーに上陸する頃には、日本軍はロシア軍を各地で撃破、北進を続けるとともに、ロシアの重要戦略拠点である旅順要塞の攻略も目前に迫って来た。 軍事作戦支援のために、提理部は直ちに東清鉄道を接収、野戦鉄道への改修に着手した。最初の改修対象となったのは本線と旅順支線、そして柳樹屯支線であった。作業は改軌が中心で、ロシア標準の1524ミリ軌間で敷設されていたものを、日本標準の1067ミリにするというものであった。その上で日本より輸送した鉄道車両を用いて、兵器・物資・軍需品といった物資や、部隊・傷病者・捕虜などの人員輸送を行うことにしたのである。 この作業により、7月18日には旅順支線のダルニー-南関嶺-後革鎮堡間が開通、日本より輸送して来たB6形蒸気機関車2両により運転を開始した。 さらに提理部は改修を進め、7月26日には本線・南関嶺-金州間と柳樹屯支線が開通、8月1日には本線・金州-普蘭店間と旅順支線・後革鎮堡-営城子間、8月8日には旅順支線・営城子-長嶺子間、8月12日には本線・普蘭店-瓦房店間、8月24日には本線・瓦房店-龍王廟間が開通し、迅速に改修を進めて行った。これはロシア軍が撤退を一時的なものと考え、再占領した際の鉄道整備作業を考慮し各施設を破壊することなく撤退したことから、簡単に改修を行うことが出来たことが大きな要因である。 日本軍の進撃により、東清鉄道は機関車を北方に避難させ、客車のみが取り残された。しかし提理部は鉄道作業局や当時日本の幹線を構築していた大私鉄から車輛を徴発し輸送していたため、ロシア側の車輛を使用することは一切なかった。 このような状況下、8月19日には旅順攻囲戦が、8月24日には遼陽会戦が開始され、各線は全力を挙げて後方支援を開始するとともに、人力での負傷者輸送などを行ったために、改修は停滞することになる。 9月4日に遼陽が陥落、北部戦線の戦闘が一段落したことから本線および附属支線の接収と改修を再開、9月11日には本線・龍王廟-大石橋間、9月18日には営口支線、9月23日には本線・大石橋-海城間、9月26日には本線・海城-鞍山站間、10月2日には本線・鞍山站-遼陽間と北方に向けて改修が進められた。 この頃になると遼陽から北進した日本軍は、10月9日から10月20日の沙河会戦で膠着状態となり互いに撤兵したのをはじめに、冬季の作戦となったため作戦行動に困難を来し始めた。また戦傷者輸送が実施されたため、提理部の路線改修作業も停滞している。結局10月27日に本線・遼陽-煙台間、10月31日に煙台炭鉱支線を改修しただけで、この年の改修は終了となった。また満州の激寒が日本人の想像を超えたものであったため、寒さ対策が不充分で機関車が凍結、相次いで列車が運休になるなど鉄道運行の面でも悩まされた。 1905年1月1日に旅順要塞が陥落、乃木希典とアナトーリイ・ステッセリのいわゆる「水師営の会見」の結果、日本軍の旅順入城が可能となったため、1月24日に提理部は旅順支線・長嶺子-旅順間を開通させ、旅順支線を全線開通させるに至った。 なおこれに前後してロシア軍は提理部に接収された鉄道の奪取を目的に反撃を行い、大石橋・営口・海城・鞍山などの駅が攻撃され、線路も橋梁も爆破された。1月12日には営口駅が包囲され、救援に向かった列車も銃撃を受けたが、その被害は軽微であり輸送力に影響を与えるものではなかった。 北部戦線は冬季を迎え作戦行動に影響を与えたこと、そして旅順攻略で兵力が消耗したことにより進軍はきわめて遅いものとなっていた。しかしロシア側もロシア革命の発端ともいえる血の日曜日事件により国内が動揺、満州への兵員輸送が限定的となっていたことから、日本軍はロシア軍に総力戦を行うことを決定、2月21日に奉天(現在の瀋陽)郊外で激突した(奉天会戦)。 激しい戦闘となった奉天会戦であるが、奉天を包囲されることを嫌ったロシア軍側が戦略的撤退を行い、日本軍は3月10日に奉天を占領。提理部は戦況を見ながら会戦終了前にもかかわらず本線の接収・改修を5か月ぶりに再開し、3月8日に本線・煙台-沙河間、3月18日に本線・沙河-渾河間、4月3日に撫順支線・蘇家屯-李二十寨間、4月24日に本線・渾河-奉天-新台子間、4月28日に本線・新台子-乱石山間が開通した。しかしこれらの区間では会戦と失地回復を念頭におかない撤退をしたロシア軍により蘇家屯附近を始めとして多くの鉄橋や駅舎・設備が破壊されており、復旧はかなりの困難を極めた。 その後、ロシア軍は鉄嶺方面へ撤退したものの、士気が著しく下がって軍紀も乱れ、鉄嶺からさらに奥、哈爾浜まで撤退した。これによりどんどんと提理部の改修も北進し、5月7日には本線・乱石山-鉄嶺間、5月13日には撫順支線・李二十寨-千金寨間が開通した。 陸戦が一段落したことで日露両国の戦闘は海軍が主役となり、5月27日には日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊が激突している(日本海海戦)。連合艦隊の東郷平八郎は丁字戦法などによりバルチック艦隊を翻弄し一方的勝利を収め、ロシアを和平交渉へと誘導することになった。この後陸上では改修が再開、6月5日には本線・鉄嶺-開原間、7月7日には本線・開原-昌図間、そして8月1日には撫順支線・千金寨-撫順間が開通して撫順支線が全通した。なお軍そのものは本線を双廟子まで占領している。 日本海海戦の後、日本は各作戦には勝利したものの兵力、物資面に欠乏を来たし戦争継続が困難となり、アメリカ合衆国を仲介として和平交渉を推進。9月5日に戦勝国としてロシア側と講和条約であるポーツマス条約を締結した。日本側で交渉に当たった小村寿太郎は東清鉄道について哈爾浜以南の割譲を主張したものの、日本が占領したところまでとするロシア側の主張と対立、結果的に長春にある寛城子駅以南を日本に割譲することになった。ここに日露戦争は終結し、日本は東清鉄道の寛城子以南の部分と、関東州や鉄道附属地の租借権を得た。 講和成立により提理部の改修は一旦停止となり、ロシア軍の撤退と鉄道の正式な引き渡しを待つことになったのである。
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