日本軍の進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:17 UTC 版)
当初の作戦方針は、新牆河北岸に西から第4師団、第3師団、第6師団、第40師団を並列させ、強力な砲兵力を活かして湖南平野の中央突破をはかるというものであった。攻勢発起前の9月7日から10日にかけて、側背面の脅威を取り除くため第6師団が大雲山周辺の掃討を行ったが徹底性を欠き、13日、攻撃位置につく前の第40師団が、陣前出撃してきた第58軍に待ち伏せられ不期遭遇戦となった。 9月18日、日本軍は攻勢を発起、新牆河の渡渉を開始した。南岸の縦深陣地には中国軍第4軍が配備されていたが、日本軍は擁する各種火砲322門をもって一挙に陣地を突破した。撃破された第4、第58軍は道路を破壊して東方の山地(万洋山山脈)へ後退した。東翼の第40師団は南東の平江(第27集団軍の司令部)へ向かって進撃した。 9月20日、第4師団、第3師団、第6師団は汨水の左岸(南岸)まで進出。日本軍の正面では第37軍など4個師が既設陣地に拠って守備しており、そこへ打撃軍である第26軍が北上して、東から日本軍を側撃する構えを見せた。そこで日本軍は従来の作戦方針を一変(平江占領を断念し兵力を集中)し、第6、第40師団で第26軍を更に東から包囲殲滅することに決した。第6師団は第26軍の後方を遮断するために東へ大きく迂回、山地帯を急進して金井(キンセイ)を急襲した。汨水左岸地域の中国軍は山地やトーチカ陣地を拠点に頑強に抵抗したため日本軍は苦戦を強いられたが、22日から25日までの戦闘で第26軍は撃破されて南東に退却し、北上してきた増援の第10軍も第3師団に撃破された。(汨水左岸会戦) 日本軍は汨水左岸会戦に兵力集中させるよう徹底したため、東部山系にいる中国軍(第4軍、第58軍)を軽視していた。しかしこの山地には更に第20軍や第72軍が集結中で、この東部山系から西へ向かって日本軍の後方を側撃し勝機を得ることこそが、まさに中国軍の主眼としている作戦方針であった。
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