日本軍の輸送作戦
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1943年(昭和18年)2月5日、日本軍は北部軍を改編する形で北方軍(司令官樋口季一郎陸軍中将)を新編し(大陸命第747号)、北海守備隊を第五艦隊司令長官の指揮下からのぞいて北方軍の隷下においた(大陸命第748号)。「北太平洋方面(千島方面防衛ヲ含ム)ニ関スル陸海軍中央協定」において陸海軍の分担が定められ、同年2月末を目途としてアッツ島とキスカ島に航空基地を建設することを目指した。また「(一)幌筵(又ハ船団集合地)以東ノ輸送ハ主トシテ海軍之カ実施ヲ担任シ陸軍ハ所要ノ船舶等ヲ以テ之ニ協力スルモノトス 兵員及緊急ヲ要スルモノ竝ニ鳴神島ニ至ルモノハ敵情ニ応シ海軍艦艇ニ依リ輸送ス/(二)陸軍輸送船ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ原則トス」という項目があった。2月13日、大本営は北海守備隊の編成を改定する。キスカ島に第一地区隊(隊長佐藤政夫陸軍大佐、歩兵三個大隊)、アッツ島に第二地区隊(隊長山崎保代陸軍大佐、歩兵二個大隊)を配置することとした。西部アリューシャンの防衛は日本陸海軍が共同で担当することになったが、この二重構造はその後の戦局に悪影響を与えたとみられる。また海軍の任務が増えたにも関わらず、北東方面の戦力は特に強化されなかった。 2月15日、北方軍司令官・第五艦隊司令長官・大湊警備府司令長官の間で協定がむすばれ、キスカ島とアッツ島に対する輸送作戦「ア号作戦」を実施することになった。これに対し、連合軍はアムチトカ島の飛行場を拠点に空襲を強化し、さらに水上艦艇部隊が進出して日本軍の補給線を脅かした。2月19日、連合軍艦隊はアッツ島を砲撃し、翌20日には同島近海で海防艦八丈が護衛していた陸軍輸送船「あかがね丸」を撃沈した(前述)。このため、この方面を担当する日本海軍の北方部隊(第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将、五艦隊参謀長大和田昇大佐)は、輸送船の護衛と米艦隊の撃滅に従事することになった。アッツ島へは輸送船で輸送をおこない、アッツ島からキスカ島へは潜水艦で輸送する。 3月初旬、第二十一「イ」船団(特設水上機母艦君川丸、輸送船粟田丸、崎戸丸)は重巡洋艦2隻(那智、摩耶)・軽巡洋艦3隻(多摩、木曾、阿武隈)・駆逐艦(若葉、初霜、雷、電、薄雲)と海防艦2隻(国後、八丈)の護衛と協力の下で幌筵を出動し、輸送船団と北方部隊は3月10日アッツ島に到着した、第一次輸送作戦は成功した。3月13日、輸送船団は幌筵に帰投した。 続いて3月22日から3月23日にかけて、第二十一「ロ」船団(輸送船浅香丸、崎戸丸、三興丸)が重巡2隻(那智〈第五艦隊旗艦〉、摩耶)と第一水雷戦隊(司令官森友一少将)等に護衛されて幌筵島を出航した。第二次輸送船団は、新任のアッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐(第二地区隊長)以下陸兵550名と砲兵や高射砲大隊・糧食・飛行場資材・野戦病院の一部など、キスカ島行の北海守備隊司令部・碇泊場支部・野戦病院の一部などであった。 無線傍受により日本軍輸送船団の出発を知ったアメリカ軍は、マクモリス少将が率いる巡洋艦部隊を派遣した。重巡洋艦ソルトレイクシティなどで編成されたアメリカ艦隊は、本海戦の数日前からアッツ島沖を遊弋(ゆうよく)していた。アメリカ艦隊の編成は、重巡ソルトレイクシティ、旗艦/軽巡リッチモンド、ラルフ・S・リッグス大佐指揮下駆逐艦4隻(ベイリー、コグラン、デイル、モナガン)であった。
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