クラ湾とコロンバンガラ島
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「ウォルデン・L・エインズワース」の記事における「クラ湾とコロンバンガラ島」の解説
ハルゼーは南太平洋軍司令官ダグラス・マッカーサー大将らとの調整を経てニュージョージア島の戦いの計画を進め、作戦は6月20日から始まった。主にムンダをめぐる戦闘が中心であったが、戦闘は難航を極めた。ムンダ方面の戦線が膠着しつつあるのを見て、ハルゼーは支援のためにニュージョージア島北西部に新規部隊を上陸させて、日本軍の背後を突かせることとした。エインズワースは第36.1任務群を率いてアメリカ第37歩兵師団三個大隊を乗せた高速輸送艦を主体とする輸送船団を護衛し、クラ湾に面した地域に部隊を上陸させる。しかし、第36.1任務群は輸送作戦に従事中の第三水雷戦隊(秋山輝男少将)の一隊に発見されており、一隊は輸送作戦を止めて魚雷を発射し、去っていった。第36.1任務群はビラの日本軍飛行場への艦砲射撃を行っていたが、魚雷が「ストロング」 (USS Strong, DD-467) に命中し、さらにバイロコの呉第六特別陸戦隊からの砲撃で痛めつけられた「ストロング」は沈没し、「「ストロング」が潜水艦に撃沈された」と思い込んだエインズワースは、救助作業ののち任務群をまとめてガダルカナル島沖に引き返した。間もなく、ハルゼーから新手の「東京急行」の出動を知らされたエインズワースは、任務群の顔ぶれを少し改めて「戦闘を熱望して」クラ湾に急行した。 エインズワースは任務群の配置を、「駆逐艦を前後に配して巡洋艦を真ん中に置く」という、ルンガ沖夜戦前にトーマス・C・キンケイド少将(アナポリス1908年)が考案した布陣をそのまま流用。戦術自体は、軽巡洋艦がさきに発砲し、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させるというものに改められた。エインズワースの旗艦である軽巡洋艦「ホノルル」 (USS Honolulu, CL-48) のレーダーが第三水雷戦隊をとらえ、「ヘレナ」および「セントルイス」 (USS St. Louis, CL-49) とともに砲撃を開始し、第三水雷戦隊旗艦の駆逐艦「新月」に火災を発生させて撃沈してもう1隻を大破させたと判断したが、「新月」、「涼風」および「谷風」から発射された魚雷により「ヘレナ」が沈没した(クラ湾夜戦)。エインズワースはハルゼーに対して景気のよい戦果報告を行った。 コロンバンガラ島への輸送作戦が海戦により打ち切られた日本軍は、第二水雷戦隊(伊崎俊二少将)を送り込んで輸送作戦を再興する。この動きを察知したハルゼーはエインズワースに対して再び「東京急行」の迎撃を命じる。このとき、第36.1任務群は「ヘレナ」の喪失によりニュージーランド海軍の軽巡洋艦「リアンダー」 (HMNZS Leander) を編入して巡洋艦3隻体制を維持し、前衛と後衛の駆逐艦を増強した。戦術もクラ湾夜戦でのものを止めて、キンケイドが考案したとおりのものに戻した。第36.1任務群と第二水雷戦隊が激突したコロンバンガラ島沖海戦は、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「神通」に集中砲火を浴びせて撃沈したものの、一週間前と同様に魚雷のファランクスによって駆逐艦「グウィン」 (USS Gwin, DD-433) が沈没し、「ホノルル」、「セントルイス」および「リアンダー」の3巡洋艦にも魚雷が命中して「ホノルル」と「セントルイス」は艦首が破壊され、「リアンダー」は航行不能となった。日本軍の輸送作戦も阻止できず、第36.1任務群は痛々しく引き揚げた。エインズワースは一週間前とは打って変わって控えめな態度に徹し、ハルゼーも戦果を知るまでは祝いの言葉を言わなかった。月の上半期の間に相手部隊の旗艦2隻を撃沈するなどの戦果をあげたエインズワースの第36.1任務群ではあったが、巡洋艦がひどく痛めつけられたため、事実上戦闘からは脱落した。 一連の戦闘に対してエインズワースには、クラ湾夜戦での功績で海軍十字章を、ソロモン方面の水上戦闘全般に対する功績で海軍殊勲章をそれぞれ受章した。しかし、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥(アナポリス1905年組)は後年の回想で、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦におけるエインズワースの戦いぶりについて、以下のように評した。 エーンスワース提督は、二回の海戦において、適当な夜間隊形で接敵した。単縦陣の巡洋艦部隊を中央に、その前後に、それぞれ駆逐艦を配備していた。二回とも、エーンスワースの巡洋艦は日本艦隊に近迫し、五分間ほど、急射撃を浴びせ、次いで日本の魚雷を回避するため針路を反転した。これは、理論としては適当であったが、実施の面では二つの欠陥があった。第一に、レーダー手が、効果的な射撃の配分を示す代わりに、一番大きな艦または最も近い目標だけを選んだので、連合軍部隊は双方の海戦で兵力の点でははるかに優勢であったにもかかわらず、各回ともわずかに一隻 ―最初は駆逐艦、二回目は軽巡洋艦― を撃沈したにすぎなかった。第二に、エーンスワースが自分の肉眼で容易に目標を視認できるほど、日本艦隊に近寄りすぎ、しかも射撃開始の時機を失したため、日本軍は慎重に狙いを定め、魚雷を発射することができた。日本の魚雷は彼が針路を反転しているときに列線に到達した。したがって、各海戦において、彼の巡洋艦には転舵中に魚雷が命中し、米軽巡「ヘレナ」は最初の夜戦で、ニュージーランド巡洋艦「リアンダー」は二回目の夜戦で、ともに行動不能になったのである。二回の海戦で、日本駆逐艦は魚雷の次発装填―エーンスワースはこの威力を考えていなかった―のため、一時避退し、再び攻撃のためもどって来た。一回目の海戦で、次発装填を終えた駆逐艦は、「ヘレナ」の生存者を救助中の米艦を雷撃したが、目標を逸した。二回目の海戦では、戦場にもどった日本駆逐艦は、巡洋艦二隻と駆逐艦一隻に魚雷を命中させた。巡洋艦の損害は大きくなかったが、駆逐艦は助からなかった。コロンバンガラ海戦において、エーンスワース提督は射撃開始後反転し、前衛駆逐艦に魚雷攻撃のため突撃を命じた。すでに砲弾のため航行不能となっていた軽巡「神通」を撃沈したのは、これらの駆逐艦であった。要するに、アメリカ側は、この海戦において、戦術の面では、前年にくらべて大きな進歩を示したが、戦闘能力と敵戦闘力に対する認識の点では、依然として欠けるところがあった。 — C.W.ニミッツ、E.B.ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』170、171ページ ニミッツはまた、「名前が光っている」「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」としてメリル、アーレイ・バーク(アナポリス1923年組)、フレデリック・ムースブラッガー(アナポリス1923年組)の3名を挙げた。ニミッツの視点では、エインズワースは「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人」とは言えなかった。
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