ガダルカナル‐とう〔‐タウ〕【ガダルカナル島】
ガダルカナル島
ガダルカナル島
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「ヘレナ (軽巡洋艦)」の記事における「ガダルカナル島」の解説
「ガダルカナル島の戦い」も参照 真珠湾で仮修理を行ったヘレナは、本格的修理のためメア・アイランド海軍造船所に回航された。1942年(昭和17年)に入って修理を終えると、ヘレナは南太平洋方面に飛行機とシービーを緊急輸送する任務に就き、エスピリトゥサント島からガダルカナル島へ急送した。ウォッチタワー作戦によりアメリカ海兵隊が占領したヘンダーソン飛行場に、一刻もはやく航空隊を進出させる必要があった。このため軽巡ヘレナと駆逐艦1隻は、アメリカ海兵隊機を搭載した護衛空母ロング・アイランド (USS Long Island, AVG-1) を護衛してガ島に接近した。8月20日午前9時30分、日本海軍の飛行艇はガ島南東約250浬地点で「〇九三〇 D2 敵ノ兵力 空母一 巡洋艦一 駆逐艦二 其ノ他、基地ヨリノ方位一一六度五二〇浬、針路三五〇度速力一四節」を報じた。この空母は艦橋のないタイプであった。また別の飛行艇は「一二〇五 D1 敵兵力空母一 巡洋艦四 駆逐艦九/一二一五 D一 敵機動部隊ノ位置「ツラギ」ノ一三三度二四七浬、針路一三〇度速力一八節」を報じ、この空母は艦橋をもつタイプであった。二つの空母の位置には約70浬の差があり、日本側は別個の機動部隊と判断、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)が護衛していた一木支隊第二梯団を反転退避させた。 同20日午後、ロング・アイランドはSBD ドーントレス急降下爆撃機 12機、F4F ワイルドキャット戦闘機 19機を射出した。海兵隊機はヘンダーソン基地に着陸し、最初の航空兵力となった。ロング・アイランドはニューヘブリディーズ諸島に帰投したので、ガ島北方から迫っていた南雲機動部隊の第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤)と対決せずに済んだ。一木支隊先遣隊約900名の夜襲を8月21日未明のイル川渡河戦(テナル川の戦い)で撃退したヘンダーソン飛行場基地は、次々に増強される。そして8月24日から25日の第二次ソロモン海戦において連合軍勝利の一因になった。 つづいてヘレナは空母機動部隊の護衛に加わった。空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) 基幹の第18任務部隊(レイ・ノイス少将)に合流した。空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)を基幹とする第17任務部隊(英語版)と、ワスプ基幹の第18任務部隊は、エスピリトゥサント島からガ島へ向かう海兵隊を乗せた6隻の輸送船を間接護衛していた。9月15日昼、ワスプが伊19(潜水艦長木梨鷹一少佐)の魚雷攻撃をうける。酸素魚雷が3本命中したワスプは、炎上して手のつけようがなくなった。重巡サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、軽巡ヘレナ、ジュノー等が協力して救援に従事した。ヘレナはワスプの幹部と乗組員合わせて約400名を救助した。なお、伊19が発射した魚雷は第17任務部隊をも襲い、空母ホーネットを護衛していた戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) と駆逐艦オブライエン (USS O'Brien, DD-415) に命中した。後者はその損傷が元で後日沈没した。ヘレナはワスプ生存者をエスピリトゥサント島まで送り届けた後、レンネル島沖にてガダルカナル島行き輸送船団の護衛任務に戻った。その後、ヘレナは第64任務部隊に配置換えになった。またヘレナ艦長もギルバート・C・フーバー(英語版)大佐となった。
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ガダルカナル島
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「ソロモン諸島の戦い」の記事における「ガダルカナル島」の解説
詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 1942年(昭和17年)7月6日、日本海軍はガダルカナル島に飛行場設営隊とわずかな守備隊を送り込みルンガ飛行場(後のヘンダーソン飛行場、ホニアラ国際空港)の建設を開始し、8月5日に第一期工事を完成した。一方この情報をつかんだアメリカ軍は、8月7日にガダルカナル島に海兵隊10,000名を上陸させて、さしたる抵抗も受けずに飛行場を占領した。またこれと同時にフロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に対しても陸海共同の占領作戦が行われた。ウォッチタワー作戦と呼ばれるこれらの作戦は、太平洋戦線のアメリカ軍にとっては初めての攻勢であった。こうしてそれまで注目されていなかったガダルカナル島は日本と連合軍(主力はアメリカ軍)の激戦地となった。 アメリカ軍のガダルカナル上陸に日本海軍は直ちに反撃行動を起こし、第一次ソロモン海戦が発生した。この時までの日本軍のガダルカナルでの作戦は海軍単独によるものであったが、8月12日に「ソロモン群島要地奪回作戦」(カ号作戦)の陸海軍中央協定が締結され陸軍も奪回作戦に加わることになった。しかしアメリカ軍が日本から奪取した飛行場を巡る地上戦では、日本軍の情勢判断の誤りにより被害が拡大した。この間、周辺の海域では多くの海戦が行われ、日米両軍とも多数の艦船を失ったが工業生産力が劣る日本の方がより大きな打撃であった。また、この戦いでラバウル航空隊は往復2,000キロもの長距離飛行を強いられた。そのため、搭乗員の疲労は激しく、多くの航空機と貴重な熟練搭乗員を消耗していった。 1942年12月31日に日本はガダルカナル島からの撤退を決定し、翌年2月に撤退が行われた(ケ号作戦)。一連の撤退作戦が行われた後、1943年(昭和18年)2月9日ガダルカナル島からの「転進」(撤退)を伝える大本営発表が行われた。この戦いにおける日本軍の死傷者24,000名、アメリカ軍の死傷者6,000名を数えるまでになっていた。日本軍はガダルカナル島での戦いに敗北し、以後戦況は悪化の一途をたどる。
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ガダルカナル島
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1942年(昭和17年)8月7日、連合国軍はウォッチタワー作戦によりソロモン諸島内のガダルカナル島、ツラギ島およびフロリダ諸島に来攻、アメリカ海兵隊が上陸した。これは、これらの島嶼が日本軍の軍事基地となって米豪間の補給ルートを脅かすことを阻止するためであり、他方ニューギニアの戦いを支援して最終的には日本軍のビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル基地をめざすための拠点にする意図もあった。この「フロリダ諸島の戦い」がその後6ヵ月の長きにわたるガダルカナル島の戦いの始まりである。 連合軍は奇襲に成功し、第1海兵師団はガダルカナル島に無血上陸した。8月8日の日没までにはガダルカナル島ルンガ岬に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した。日本軍のガ島守備隊は設営隊員約2570名(第十一設営隊1350名、第十三設営隊1221名)と守備隊247名、ツラギ守備隊は第八根拠地隊の第八十四警備隊約400名、ガブツ島は横浜海軍航空隊342名と設営隊員144名を擁していた。ツラギ守備隊と横浜海軍航空隊は、小数の捕虜をのぞき玉砕した。ガダルカナル島では、生き残った設営隊員や陸戦隊員がジャングルに逃げ込んだ。残存部隊(第十一設営隊〈隊長門前鼎大佐〉、第十三設営隊〈隊長岡村徳長少佐〉、守備隊)は飛行場から撤収して西進、マタニカウ河より西方3~4kmの高地に陣地を構築し、海軍本部とした。残存守備隊はここを拠点にアメリカ海兵隊と交戦することになった。 8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍・外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)率いる巡洋艦7隻と駆逐艦1隻と交戦した。連合軍側は巡洋艦4隻と駆逐艦1隻が沈没、巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が大破するなど多大な損害を被った。日本側も第十一航空艦隊(司令長官塚原二四三海軍中将、8月7日時点ではテニアン島所在)麾下の一式陸上攻撃機(第二十五航空戦隊、司令官山田定義海軍少将。軍隊区分においては第五空襲部隊)が米軍輸送船団に対し空襲を敢行し、大損害を受けた。さらに海軍陸戦隊519名を乗せガダルカナル奪回に向かっていた津軽艦長指揮下の輸送部隊(敷設艦津軽、測量船宗谷、輸送船明陽丸、第21号掃海艇、第16号駆潜艇)は8日1155に作戦中止命令をうけラバウルに向け反転した。このうち明陽丸がセント・ジョージ岬付近で米潜水艦S-38の雷撃により沈没、行方不明者342名を出した。(日本側呼称第一次ソロモン海戦、連合軍側呼称サボ島海戦。) アメリカ海軍機動部隊/第61任務部隊(英語版)を指揮するフランク・J・フレッチャー中将は存在しない日本軍空母機動部隊に恐怖を感じ、正規空母3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)、新鋭戦艦ノースカロライナ、重巡6隻、駆逐艦16隻という兵力を擁しながら、上陸支援を打ち切って撤退した。空母機動部隊による航空支援を失い、上陸船団を護衛する艦隊が夜戦で大打撃を受け、リッチモンド・K・ターナー少将はガダルカナル島からの撤退を開始した。8月9日夕刻までに、残る重機・食糧・兵の揚陸を断念し、物資を半分ほど揚陸しないまま海軍戦力すべてを撤退させた。このとき、32門の75mm榴弾砲と105mm榴弾砲からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は4日もしくは5日分しか揚陸できなかった。サボ島~ガ島ルンガ岬沖にかけての制海権は日本側にあり、日本軍潜水艦や駆逐艦は偵察のたびに艦砲射撃をおこなってアメリカ海兵隊に脅威を与えた。 ガダルカナル島とツラギ島に上陸した海兵隊第1海兵師団約1万6000名(ガ島に1万名、ツラギ諸島に約6000名)は、補給を断たれた状態で孤立することになった。ガダルカナル島では奪取した飛行場のあるルンガ岬周辺に防衛線を構築することに注力し、橋頭堡の中央には75mm榴弾砲と105mm榴弾砲が全周射撃可能なように配置された。また日本軍基地設営隊が遺棄した物資や施設は極めて充実したものだった。海兵隊はロードローラーやトラックを鹵獲・活用して飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト少将は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場はミッドウェー海戦で戦死した米海兵隊パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという。 ヘンダーソン飛行場周辺に橋頭堡を築いたアメリカ海兵隊だが、ガダルカナル島の日本軍守備隊はまだ降伏していなかった。ルンガ川河口左岸で捕虜にした日本軍准士官からの情報で、日本軍は飢餓状態で無統制となっており、説得次第では投降すると判断した。軍医や日本語の語学将校をふくめた偵察員25名は降伏を勧めるため発動艇2隻に分乗しマタニカウ川左岸に進出したところ、日本軍前進陣地直前に上陸したため猛射をうけ3名を除いて全滅した。救援のため出動した海兵隊一コ中隊はクルツ西方に上陸し、同日午後にはマタニカウ川右岸に戻った。8月15日、アメリカ軍の高速輸送艦4隻(旧式駆逐艦の改造艦艇)が航空ガソリン・爆弾・軍需品・航空基地隊員を搭載し、ガ島揚陸に成功した。8月19日早朝、アメリカ海兵隊約300名は日本軍ガ島守備隊陣地西方のコカンボナ(クルツ岬西方約5km)に上陸し、同時にマタニカウ川右岸の海兵隊も砲兵支援下で攻撃を開始した。米海兵隊戦史によれば日本兵65名が戦死して日本軍は後方に避退したと記録し、横五特(高橋中隊)の無線報告には「敵に相当の損害を与え、大発三、機銃一を捕獲。我に被害なし。食糧あと二日分」とある。
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