ガダルカナル島撤収大作戦
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「ガダルカナル島撤収大作戦」の解説
詳細は「ガダルカナル島撤収作戦」を参照 この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、陸海軍協力の元にガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が行われた。大本営や現地陸海軍ともケ号作戦に対して悲観的見通しをもっていたが予想外の成功をおさめ、合計12,682名(2月15日時点における大本営への報告)の兵員が撤収に成功した。 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、アメリカ軍の損害は戦死者7,100人、負傷者7,789人以上であった。 このとき撤退は「転進」という名で報道され、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。2月9日の大本営発表では「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と報じられている。 同時にニューギニアのブナからの転進(ブナ守備隊は1月に玉砕)も大本営発表が行われた。なお当時から陸軍の報道班の手記や新聞記事からガダルカナル島の悲惨な状況についてはおおむね公表されていた。 ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐために手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた。 日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、アメリカ軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという。 ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、1947年(昭和22年)10月27日である。
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