ガダルカナル島撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:09 UTC 版)
「ラバウル航空隊」の記事における「ガダルカナル島撤退」の解説
ラバウルの海軍戦闘機隊は、零戦の20mmでも苦戦している大型重爆撃機B-17が(一式戦の)13mmで落ちるはずがない」と考えていた。しかし、第十八号作戦発動初日の1943年1月5日に第11戦隊第2中隊の一式戦は日本軍船団攻撃に飛来した第43・第90爆撃航空群のB-17 6機、B-24 6機と交戦、2機を喪失(1名生還・1名戦死)するも1機のB-17Fを撃墜、さらに582空の零戦2機との協同戦果としてさらに1機のB-17Fを確実撃墜した(第43爆撃航空群ジャック大尉機・リンドバーグ少佐機。リンドバーグ少佐機には第5爆撃航空団指揮官ウォーカー准将が搭乗しており、ウォーカー准将は落下傘降下し捕虜になった。)。以降10日まで第11戦隊の一式戦は船団護衛を行い大型機を中心に米軍機6機ないし7機を撃墜(B-17E/F 2機ないし3機・B-24D 1機・B-25D 1機・P-38F 1機)、空戦で13機を喪失するも来襲する延べ320機余りもの連合軍機を邀撃し、喪失輸送船を1隻にとどめ十八号作戦は成功に終わった。 1月9日、頭号戦隊たる第1戦隊もラバウルに進出。27日、補充機を受領し戦力回復した第11戦隊と、第1戦隊の一式戦69機は末期ガダルカナル島の戦いにおいて完全撤退中(ケ号作戦)の地上部隊を支援するため、第45戦隊の九九双軽9機とともにガ島を攻撃。この空戦においてアメリカ陸軍航空軍および海兵隊戦闘機24機と交戦、一式戦は6機を喪失するも7機を確実撃墜した(戦果内訳はP-38 2機・P-40 2機・F4F 3機、第339戦闘飛行隊および第112海兵戦闘飛行隊)。なお、この2日前の25日に海軍の零戦72機が一式陸攻12機とともにガ島を攻撃しているが、5機を喪失し撃墜戦果無しと一方的な敗北を喫していた。31日、第11戦隊の一式戦は第112海兵戦闘飛行隊のF4F 8機と交戦し2機を喪失するも、2機を確実撃墜。 2月1日の第一次撤退日は九九双軽を掩護しガ島飛行場に対し航空撃滅戦を実施。第二次撤退日の4日には撤退将兵を乗せた駆逐艦を第11戦隊第1中隊が上空掩護、来襲したF4F・P-40・SBD・TBFと交戦し一式戦2機を喪失するも3機を確実撃墜(F4F 1機・SBD 1機・TBF 1機)、駆逐艦の損害は1隻中破・1隻小破で済み艦隊を守り抜くことが出来た。アメリカ軍はさらにF4F 2機・P-40 1機(同士討ち)・SBD 1機を空戦で喪失しており、日本軍も途中で空戦に加わった海軍の零戦2機を喪失している。 ケ号作戦成功に大きく貢献するなど活躍を見せた一式戦ではあったが、2月6日、九九双軽を援護しニューギニアのワウ飛行場攻撃時に一式戦4機・九九双軽3機を喪失し第11戦隊長杉浦勝次少佐が戦死(戦果はA-20 1機・C-47 1機撃墜、ワラウェイ1機地上破壊)。 ラバウル方面への陸軍航空部隊は増強され、戦闘機は一式戦「隼」のほか二式複座戦闘機「屠龍」(夜間戦闘機)および後には三式戦闘機「飛燕」も参戦する。一方で同年春、三式戦の大編隊がトラック島から移動中、多数機を損失する事故が発生。三式戦が試作審査開始1年経過し液冷エンジン周りのトラブル頻発するなかでの強行出撃だった。ラバウルの陸軍司令部によれば、液冷エンジントラブルで一旦基地に戻り離陸やり直したため誘導機に合流できず単発機編隊で偏流修正せずに洋上を進んだため進路が左にそれてほとんどが燃料切れでブーゲンビル島東海岸に辛うじて不時着したという。その他に、ニューギニア島東岸のラエにまで通り過ぎて飛んでいった機もあり、燃料不足で洋上不時着した機も複数あり、この燃料不足については、設計製造の川崎航空機の調査により、逆止弁すり合わせ工作精度が悪く翼の負圧側に開口していた空気抜きの孔から燃料が漏れた(吸いだされた)ための燃料不足であると判明し全く申しわけないミスと陳謝している。また、スパイ工作員による隊長機コンパスの狂いを疑う噂も流布されていた。 1943年(昭和18年)1月末、陸攻による夜間爆撃を開始。海軍艦爆隊が昼間攻撃に参加。 2月初頭、南部ソロモン・ガダルカナル島から撤退完了。戦闘機隊の201空・204空・582空がブーゲンビル島南端ブイン基地に進出。以後、制空戦と中部ソロモンへの輸送船団上空直掩任務を行う。3月3日、ニューギニア東南ラエへの陸軍部隊輸送作戦である「第八十一号作戦」(ビスマルク海海戦)の上空直掩を務めるが、米軍機に捕捉され輸送船団は座乗陸軍部隊とともに壊滅した(輸送船8隻沈没・駆逐艦4隻沈没)。以後この東部ニューギニアとニューブリテン島間の海域の制海権を失い、潜水艦か大発動艇による夜間小規模輸送になった。 3月10日、第11戦隊はソロモン方面のラバウルから今後主戦場となる東部ニューギニアのウエワクに前進。 4月、日本海軍は「い号作戦」を発動(4月2日 - 4月17日)。作戦期間中は第一航空戦隊・第二航空戦隊の空母瑞鶴・瑞鳳・飛鷹・隼鷹母艦飛行機隊がラバウルへ進出。X作戦でソロモン方面、Y作戦でニューギニアのポートモレスビー方面、Y1作戦でニューギニアの南東端ラビ方面を攻撃。4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将がブイン近くで搭乗機を撃墜され戦死(海軍甲事件)。 5月14日、251空(小園司令)が進出。6月16日、ガダルカナル島でルンガ沖航空戦が発生。以後、南部ソロモン制空権を喪失し6月30日中部ソロモン・レンドバ島に米軍が上陸。6月30日、ニューギニア島が危機になり、東南・サラモア攻略作戦を開始。連合軍は陽動作戦で南のナッソウ湾に上陸。7月上旬、レンドバへの陸軍爆撃隊と海軍戦闘機隊の協同作戦が2回実施される。攻撃で与えた在地連合軍へのダメージは大きく効果があったが、2回で中止になった。1943年7月15日、第二〇一海軍航空隊(中野司令)がラバウルに着任。
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