ガダルカナル攻撃
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1942年8月7日、米軍ガダルカナル島上陸の報を受け、上陸支援の米機動部隊攻撃に向かうこととなった四空の一式陸上攻撃機27機の援護、米海軍機撃滅を任務として、台南空からは戦闘機18機が参加。羽藤は、笹井醇一中尉が指揮する第三中隊の第二小隊長坂井一飛曹の三番機として出撃した。一式陸攻がガダルカナル島沿岸に上陸中の米艦隊、輸送船へ爆弾投下した直後、一式陸攻と、これを護衛中の零戦隊に対し、空母サラトガ発艦の米海軍VF-5航空隊所属のF4Fワイルドキャット3機が上空から急降下して攻撃。ジェームズ・“パグ”・サザーランド大尉のF4Fは一式陸上攻撃機を撃墜したが、反撃を受けて機体からは黒煙が噴き出した。これに対し、第二中隊の第一小隊三番機である山崎市郎平三飛曹機が攻撃、第三中隊の第二小隊二番機である柿本円次二飛曹、三番機の羽藤が続いて参戦したが、防御力の高いF4Fはなかなか撃墜できず、さらに第三中隊第二小隊長の坂井三郎も参戦した。サザーランドは四機との格闘戦になるが最後まで粘り、最終的には坂井がサザーランドに敬意を表し、撃墜前に合図を送り操縦席を外して撃ったためサザーランド負傷していたものの脱出に成功、生還してパイロットとして復帰した後にさらに4機撃墜してエース・パイロットとなった。これは坂井、羽藤、山崎の共同撃墜として記録された。これ以降、日本軍はラバウル、ガダルカナル間の往復2千キロ以上、零戦の狭い操縦席で往復7-8時間の過酷な飛行を伴う戦闘を余儀なくされ、一方で米海兵隊戦闘機隊が8月20日にガダルカナル飛行場に進出、同島上空の制空権を確保したため戦況は大きく変化した。 1942年8月21日、羽藤は一式陸攻36機護衛の河合大尉指揮の台南空零戦13機の1機、第二中隊長の笹井中尉の三番機として出撃。笹井中隊6機(笹井中尉、米川二飛曹、羽藤三飛曹/高塚飛曹長、松木二飛曹、吉村一飛兵)は、ガダルカナル飛行場北西のサボ島南岸、高度4千メートル上空で、前日ガダルカナル飛行場に進出したばかりで、上空哨戒中の米海兵隊VMF-223航空隊のグラマンF4F戦闘機4機と交戦。ジョン・スミス海兵隊少佐(後の19機撃墜のエース)以下4機を、笹井中隊6機が、高度差150メートル優位から一撃。羽藤の射撃も命中し、グラマンF4F全4機が被弾。しかし、4機とも直ちにガダルカナル飛行場の方向へ離脱したため、ラバウルまでの帰りの燃料の憂慮から、追撃はできず、スミス少佐を含めた4機は、大破した2機も含めて飛行場に滑り込み、人的損害はなかった。羽藤を含めて、笹井中隊は無傷でラバウルに帰還する。8月23日と25日もガダルカナルへ出撃し、同島上空に達するも共に会敵せず。 1942年8月26日、一式陸攻17機の護衛として台南空の零戦9機が参加。太田は指揮官笹井中尉の三番機として出撃。しかし、コースト・ウォッチャーズからの事前通報を受け、迎撃の米海兵隊のグラマンF4F戦闘機12機は、9千メートルと十分な高度をとって待ち伏せていた。F4Fは、高高度からの急降下奇襲の一撃にて零戦2機を撃墜し海面への激突を確認した。この一撃を回避した笹井小隊はこのときに離散してしまい、列機は笹井中尉を見失う。二番機の大木一飛曹は3発被弾、三番機の羽藤三飛曹は無傷でラバウルに帰還するが、笹井中尉は未帰還となった。この日、笹井中尉は米海兵隊エースのマリオン・カール大尉を追尾し、ガダルカナル基地上空へ単機で突入し、カール大尉と一騎討ちの末、撃墜されている。1942年9月2日、5日、ガダルカナル攻撃に参加。9月7日、ポートモレスビー攻撃にも出撃。10日、ガダルカナル攻撃に参加。
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