最期の戦闘とは? わかりやすく解説

最期の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:14 UTC 版)

笹井醇一」の記事における「最期の戦闘」の解説

8月26日笹井陸攻16機(木更津空8機、三沢空8機)援護零戦9機の指揮官として出撃6時43分、ラバウル離陸コースト・ウォッチャーズからの事前通報を受け、迎撃米海兵隊グラマンF4F戦闘機12機は、9千メートル十分な高度をとって待ち伏せ10時10分、戦爆編隊25機が、ガダルカナル飛行場手前のルンガ海峡上空7千メートル進入したところ、F4F戦闘機高高度からの急降下一撃を受け、乱戦へ。反撃のなかで、笹井中尉は、米海兵隊撃墜王マリオン・カール大尉単機追尾カール大尉ガダルカナル飛行場への着陸操作入ったところを狙って奇襲一撃対空砲火援護にて、撃墜寸前回避される。敵基地上空への単機突入という危険極まりない状況から、察知され時点離脱するのが常道のところ、笹井反転再攻撃米海兵隊員数百人眼前における低空での壮絶な一騎討ちで、笹井カール大尉機を失速墜落寸前まで追い込む零戦優位なの上運動引き込み笹井機は攻撃位置確保寸前逆にカール機による機首激しく持ち上げつつの前下方射撃受けて飛行場至近海岸線上空撃墜された。急上昇中に射弾を受けた瞬間爆発起こした機体破片は、海岸線四散したが、後日笹井機の酸素ボンベ海岸打ち上げられカール大尉のもとに届けられたという。 当時ラバウル基地にあった報道班員吉田一によると、いくら待って笹井機が戻らぬなか、基地全体が、まるで笹井と共に息をひきとったのような哀愁つつまれていたという。この日、台南空司令斎藤久大佐が、西日傾くまで飛行場立ち続け、またこの夜、若い搭乗員が、指揮所裏に生えたジャスミンの木の、夜目にも白い花の下で、飛行服の袖に顔を埋めてすすり泣いていたのを目撃したという。この晩、笹井の未帰還知らない従兵が、宿舎食堂いつもの場所に笹井はし箱並べたのをみて、この日、笹井指揮下の第三小隊長として出撃して帰還した高塚寅一飛曹長が、「笹井中尉は、めしを食わんといっとったぞ」と叫び続けて「おい、笹井中尉はし箱はな、あしたから、俺が使うぞ。その代わりにな、俺のはし箱貴様にやるから、あしたか使え」と泣き出しそうな表情をして言っていたという(高塚曹長9月13日ガダルカナル攻撃で未帰還となる)。 カール大尉(18.5機撃墜エース)は、この8月26日笹井との一騎討ち大きな印象残しており、特に米国本土帰還後訓練教官時代に、折に触れて、この勇敢な零戦パイロットとの一騎討ち引き合い出し着陸といえども戦闘態勢を解くな、最後の最後まで絶対に気を抜くな、いかに不利な状況追い込まれても絶対にあきらめず直ちに機位を立て直せ、と戦闘機訓練生強調していたという。 笹井連合艦隊告示36号で、「第251海軍航空隊付(改称後台南空海軍中尉笹井醇一 戦闘機隊指揮官又は中隊長として比島東インド及び東部ニューギニア方面等の作戦従事し戦闘参加76単独敵機27機を撃墜し友軍機と協同敵飛行機187撃墜16炎上25機を撃破せり」(昭和18年11月21日)と布告されている。海兵出身者公認撃墜数では最高である。戦死認定され海軍少佐二階級特進。墓は父と同じ多磨霊園にある。戦後書かれ戦記小説では「ラバウル貴公子」、「ラバウルリヒトホーフェン」と称された。

※この「最期の戦闘」の解説は、「笹井醇一」の解説の一部です。
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