最期の日々
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再度静養することになったライヒシュタット公は、自らの虚弱さを父ナポレオン1世と比較して嘆いた。 10月1日、プロケシュ=オステン少佐が帰京して再会すると、イタリア統一運動について情報を得、自らの王座への執着より、毎日のように見舞う友と各国の動向や民族主義や自由主義、そして宗教(キリスト教への信仰)に関心を持った。11月、ペスト流行も下火になったことから、ホーフブルクに戻った。12月頃には父ナポレオン1世の肖像画の前で物思いにふけることも多かった。 翌1832年1月、ライヒシュタット公は軍務に復帰したが、1月16日、極寒の中、葬儀の指揮の途中で倒れ、再び静養に入った。同年春にはパルマでもペストが流行し、マリー・ルイーゼ女公は統治に専念するためウィーンに帰京しなかった。当時、結核は死を意味し、主治医らは頑なにこの診断を避け、報道も規制していたため、正確な情報が女公に届いていなかった。 5月13日、フランツ1世はライヒシュタット公を喜ばせようと大佐に任命したが、公は力なく微笑むだけだった。同月17日、ライヒシュタット公はディートリヒシュタインに対し、母に会いたい旨を伝えた。第2子懐妊中のゾフィー大公妃はライヒシュタット公の死期を予感し、シェーンブルン宮殿で快適に過ごせるよう、皇帝に願い出、準備も整えさせた。公は「慈悲深い美の天使」と大公妃に感謝した。ゾフィー大公妃が明け渡したその部屋は、かつて父ナポレオン1世が滞在した部屋でもあった。病状は悪化し、耳も遠くなる中、6月1日にはマルモン元帥の見舞いを受け、父の話に花を咲かせた。 6月8日、マルファッティ医師は他の医師らと、秋以降も回復しない場合ナポリでの転地療養の必要性を認め、この話を伝え聞いたライヒシュタット公は希望を持った。6月17日、宮廷の皇族や貴族が揃って見舞いに現れたが、ゾフィー大公妃が来ると席を外した。ゾフィー大公妃は、ライヒシュタット公から(その逝去を前提とした)秘蹟の儀式を受けることを承諾させる務めを背負っていた。ライヒシュタット公は承諾し、6月20日に儀式が行われたものの、逆に公の心は深く傷ついた。 同じ頃、パルマを出立したマリー・ルイーゼは6月24日にウィーンに到着し、痩せ衰え、変わり果てた息子の姿に衝撃を受けた。7月6日、ゾフィー大公妃が次男マクシミリアンを出産して産褥に伏すと、ライヒシュタット公は激励の言葉を伝言した。やがてシェーンブルン宮殿の木々に囲まれた一角で好んで過ごすようになったが、7月15日に庭から戻って以降体調が悪化し、声を発することも困難になった。 7月20日、側近のモル男爵は、ライヒシュタット公の逝去後、直ちにライヒシュタット家が解体することを上官から告げられ、冷徹さに驚きつつも感心した。 7月21日午後4時、体調が悪化し、モル男爵は直ちに司祭と母マリー・ルイーゼを呼んだ。多くの側近が集まる中、翌22日午前3時、21歳で逝去した。
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最期の日々
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「ドゥルセ・マリア・ロイナス」の記事における「最期の日々」の解説
1997年4月15日、ハバナにあるスペイン文化センターから作品Jardínの45周年を記念して称誉を受けた。 その同じ日に、小康状態でCIMED病院に入院した。 彼女は1997年4月27日、心肺停止により94歳で亡くなった。彼女も他の3人の兄弟も、跡継ぎを一人も残していない。彼女は故夫のパブロ・アルバレス・デ・カニャスの誕生日である28日の朝にロイナス家の霊廟に埋葬された。 キューバの文化界および政界の重要な人物、ならびにカトリック教会の代表者が出席したが、女流詩人ロイナスに最後の別れを告げるため多くの民衆が埋葬に参加した。その間辺りには、セルバンテス賞(スペイン語圏のノーベル文学賞)を受賞した作品の一部を朗読する彼女の声がスピーカーを通して響いていた。
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最期の日々
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「チャイコフスキーの死」の記事における「最期の日々」の解説
以下はコレラ、並びに併発した肺水腫による最も一般的な死亡説である。 1893年11月1日(ユリウス暦10月20日)、チャイコフスキーはアレクサンドリンスキー劇場でアレクサンドル・オストロフスキーの演劇「熱き心」を鑑賞後、サンクトペテルブルクのレストラン「ライナー」で甥たちと共に食事をした(現在そのレストランは文学カフェになっている)。チャイコフスキーはそこで水を注文した。レストランでは沸騰させ殺菌した水の提供が出来なかったが、チャイコフスキーは周りの反対を聞かず、そのまま生水を飲んだ。 翌日の朝、チャイコフスキーは腹痛と下痢に襲われた。胃痛は30代の頃からの彼の持病で、ヴィシーの温泉などで数年おきに療養していた。また、炭酸ナトリウム一匙をグラス一杯の水に注いだものなど、お気に入りの「薬」を服用していた。このとき、オデッサ歌劇場の指揮の依頼を承諾している。帰宅した弟モデストは、事態の深刻さを悟って、医師を呼んだがチャイコフスキーは不在だった。その日の夜、もう一度往診に訪れた医師は病状に驚いて別の高名な医師を呼んだ。そのときチャイコフスキーはコレラと診断された。病状は刻々と悪化したが、翌朝にかけていったんは危機を乗り越えた。 3日後の24日にメディアがコレラの発病を初めて報じた。部外者の訪問は禁止され、夜8時には昏睡状態に陥る。10時には肺水腫を併発した。イサアク大聖堂から司祭が訪れ、死の祈りを唱える。 そして翌日の1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)午前3時15分、兄ニコライや弟モデスト、甥ウラジーミルが見守る中で心肺が停止した。 弟モデストは死の瞬間を次のように記している。 いままで半ば閉じ、すっかり光を失っていた目が突然大きく見開いた。その目には言葉で表現できないが、はっきりとした意識を示すものが現れていた。彼はその視線を次々とそばに立っている3人の顔に落としていったが、それが済むと天井を見上げた。ほんのわずかのあいだだったが、目の中で何かが輝き、最後の呼吸とともに消えて行った。朝3時ちょっと過ぎのことだった。
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