最期の状況と遺体の処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「最期の状況と遺体の処理」の解説
スターリン時代は皇帝一家の処刑は、革命に貢献する英雄的行為とされていたため、ソ連政府は一時期革命教育の一環として、処刑隊員の兵士を全国の学校や職場で講演させた。そして自身の体験を英雄的行為と考える彼らは、当日の情況を多くの人々の前で詳細に語った。そのため皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃が乱射されたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、処刑の状況は比較的正確に判明している。 ユロフスキーが残した資料によると、遺体は一度廃坑に埋めた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后や、イギリス王家とも繋がりの深いロマノフ家一家の殺害の事実を伏せ、諸外国とのトラブルを回避するためであった。殺害の決定においては、レフ・トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張し認めさせた。殺害後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキが「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年には、ミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されている。
※この「最期の状況と遺体の処理」の解説は、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「最期の状況と遺体の処理」を含む「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事については、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。
- 最期の状況と遺体の処理のページへのリンク