最期の状況とは? わかりやすく解説

最期の状況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 10:10 UTC 版)

一木清直」の記事における「最期の状況」の解説

ミッドウェー作戦失敗後の6月13日一木大佐一木支隊同行していた第二聯合特別陸戦隊司令官大田實海軍少将と共にグアム島日本軍名、大宮島)に到着した第二艦隊司令長官近藤信竹中将)からの指揮解かれグアム島での待機命じられた。これは作戦失敗秘匿する意味もあった。続いて内地帰投し、その後アリューシャン諸島アッツ島配備予定であったという。 1942年昭和17年8月7日一木支隊輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮下の駆逐艦2隻(嵐、萩風)に護衛されグアム島出発サイパン島経由して内地にむかうことになったその日連合軍ガダルカナル島フロリダ諸島に来攻してガダルカナル島の戦いが始まる。第八艦隊重巡洋艦部隊第一次ソロモン海戦大勝し大本営および現地陸海軍予定通りポートモレスビー作戦遂行することになった一木支隊に対して南東方面作戦従事させる旨を内報しグァム島待機命じた大本営からの命令船団はたびたび目的地変更したあと、8月12日夕刻トラック泊地到着した8月13日南東方面日本軍海軍第十一航空艦隊第八艦隊陸軍第十七軍)は協議おこない、「ガ島米軍兵力詳細不明なるも有力部隊ではない」「時間がたてば不利になるので、一木支隊海軍陸戦隊8月18日ガ島上陸させ急速奪還決す」と発令した8月14日日本軍は「キ」号作戦発動する8月16日朝、一木大佐以下支隊先遣隊キ号作戦挺身隊)916名は有賀大佐指揮下の陽炎型駆逐艦6隻(嵐、萩風浦風谷風浜風陽炎)に分乗してトラック泊地出撃した。一木支隊士気は、非常に高かったという。なお一木支隊第二梯団1500名は輸送船ぼすとん丸、大福丸)に分乗し第二水雷戦隊司令官田中頼三少将護衛下で一木支隊先遣隊同時にトラック泊地出撃速力8.5ノットガダルカナル島向かった先遣隊より4日遅れた8月22日ガ島上陸予定)。海軍陸戦隊乗せた輸送船金龍丸も第二梯団追及しており、途中で合流している。 8月18日夜、一木支隊先遣隊ガダルカナル島タイボ岬に到着し8月19日午前0時までに上陸した一木支隊先遣隊軍旗を奉持し携帯弾薬各自250発、糧食は約一週間であった日本陸軍一木支隊練度自信をもっており、飛行場占領疑っていなかった。第17駆逐隊浦風谷風浜風)はラビの戦い従事するため命令どおり撤収し援護のために残った駆逐艦は3隻(嵐、萩風陽炎になったこのあと萩風」はB-17重爆攻撃大破し「嵐」に護衛されトラック泊地撤退ガ島残ったのは「陽炎」1隻となった同時期、ヘンダーソン基地取り残されていたアメリカ海兵隊食糧不足物資不足に悩まされつつ、鹵獲した日本軍ロードローラートラック活用して飛行場復旧しつつあった。護衛空母ロングアイランド(USS Long Island, AVG-1/ACV-1/CVE-1)がガダルカナル島接近し、同島ヘンダーソン飛行場F4Fワイルドキャット戦闘機 19機とSBDドーントレス急降下爆撃機 12機を進出させた。南東方面部隊指揮官第十一航空艦隊司令長官)はアメリカ軍機動部隊発見報告により一木支隊第二梯団反転退避命じ基地航空部隊外南洋部隊海上兵力に対応を命じた宇垣纏連合艦隊参謀長は「彼の企図飛行機運搬にありしか。但し之は全機認むるを得ず、更に同様の空母二の矢として同様任務服しあるやも知れず。/本移動せる飛行機を速に撃破し尚敵の飛行場使用不可能ならしむる如く空襲夜間砲撃現下急務たり。根を卸さしむべからず焦慮するも出先は仲々思ふ通り動かず。」と記録している。 一方一木支隊先遣隊夜間前進し昼間待機休養するという方式ヘンダーソン飛行場に向け進撃した上陸地点タイボ岬から2昼夜費やしヘンダーソン飛行場東方約3キロにあるイル川河口付近進出した一木支隊先遣隊の上陸は、コースト・ウォッチャーズ沿岸監視員現地人を含む諜報部隊)によって米軍海兵隊通報されていた。一木支隊先遣隊斥候部隊は、情報もとづき待ち伏せしていた海兵隊攻撃全滅態となった。 8月20日2230分より、一木支隊先遣隊はエドウィン・ポロック中佐率いる第1海兵連隊第2大隊イル川西岸陣地夜襲決行する。同20日深夜から8月21日未明にかけての戦闘で、一木支隊先遣隊2度にわたる肉薄強襲試みるも、アメリカ海兵隊橋頭堡堅い機銃座と鉄条網守られていた。さらに迫撃砲榴弾砲集中射撃により、一木支隊先遣隊大きな損害受けた一木支隊先遣隊夜襲断念しイル川東岸海岸付近に兵をまとめた。日の出後、アメリカ海兵隊イル川上流から迂回渡河して支隊残存兵を東南方より包囲圧迫、さらにM3軽戦車投入して海岸おしこめた。21日15時米国記録では14時主な戦闘終了負傷兵15名を捕虜としたとされている)、死者行方不明者777名を出したところで軍旗を奉焼し自決したとされている。なお一木大佐死因自決については、どうにか連隊本部合流できた30余り負傷兵誰もが連隊旗所持せず(米国側の記録にも連隊旗所在記載が無い)、一木支隊長の最期確認していないため日本側の戦闘詳報では「一五〇〇 連隊旗を奉焼し自決となっている。「自決ではなく戦死」との米側記録一部見られ確かな状況分かっていない。 8月28日大本営陸軍部辻政信陸軍中佐は、軍令部一木大佐最期について語った大本営海軍部の高松宮宣仁親王海軍中佐昭和天皇弟宮)は以下のように記述している。 参本辻中佐ノ話。一木支隊ハ敵包囲ヲ受ケ一木聯隊長軍旗ヲ焼キ切腹自刃セリト。約一〇〇名包囲ヲトキ後退セリ海軍救援ニ赴キ殆ンド全滅セルワケナリ。 一木支隊長モ「ミッドウェイ攻略ニユキ仝作戦中止シテ大宮島一時上陸シタ処ガ、仝地ノ警備隊長弘中佐(海兵49)ガヨッパラッテヰテ「陸軍シニタカ帰レ」ト云ツタトカデ、甚ダマヅイコトニナツテヰタ。ソレガヤット原籍北海道ニ皈ルコトシママテ出発シタラ、又南ヘユケト云フワケデ、ソノマヽ少シ積ミカヘテ、地上研究ヲスル暇ナク急進シテアノ結果トナツタ次第ナリ海軍トシテガダルカナル」ニ敵ヲシテ奇襲セシメタ失敗モアリ、一木支隊ニ対シ特別ナル感ジヲ表明スベキナリ。 — 高松宮日記 第四巻 476ページ昭和17年8月28日記事

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