一木清直とは? わかりやすく解説

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一木清直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 03:26 UTC 版)

一木 清直(いちき[2] [注 1]きよなお、1892年明治25年)10月16日 - 1942年昭和17年)8月21日)は、日本陸軍軍人陸軍士官学校卒(28期)[3]


注釈

  1. ^ 「一木」のヨミを「いちぎ」とする説もある。
  2. ^ 【東京二十七日發】[5] 國通=陸軍省ではさきに西南太平洋方面で戰死を遂げた一木清直陸軍大佐に對し陸軍少将に進級せしめられた旨左の通り発表した 陸軍省發表(七月二十七日)今般左の通り発令せられたり 陸軍大佐 一木清直 任陸軍少将/一木少将略歴 静岡縣出身、昭和二年三月歩兵聯隊中隊長、同年七月歩兵聯對隊機關銃隊長、同年十月四日歩兵學校教官、同十一年五月北支駐屯軍大隊長、同十三年三月歩兵學校教官、同十四年八月歩兵學校教導聯隊附、同年九月戸山學校研究部部員、同十五年八月歩兵學校教官、同年十二月歩兵學校材料廠長、同十六年一月兵器學校研究部部員、同年七月歩兵部隊長、同十七年五月現地部隊長、その後南太平洋方面で戰死を遂げた、同少将は十二年七月七日盧溝橋事件當面の大隊長であつた(記事おわり)
  3. ^ ○第十五駆逐隊(一三-一六〇〇)「親潮」「黒潮」、第一第二第三五第三四哨戒艇、2聯陸、一木支隊、あけぼの丸、大宮島着。[10]
  4. ^ 【同盟東京二十七日発】[17] 陸軍省は曩に西南太平洋方面で戰死を遂げた一木清直陸軍大佐に対し陸軍少将に進級せしめられた旨次の通り発表した 陸軍省發表(七月廿七日)今般左の通り発令せられたり 陸軍大佐 一木 清直 任陸軍少将(以下略)
  5. ^ 〔 ソロモン諸島グワダルカナル島にて トレガスキINS特派員 八月二十九日發東京二十七日發〕=遅着、最近グワダルカナル島の激戰で米國陸戰隊によつて殲滅された日本軍上陸部隊の死体八百七十個が發見された、テナル河流域に埋葬された、以上はテナル河激戰に關する今日までの公表戰果で、米軍部隊の包圍作戰から脱出せんとした日本兵の死体は依然海濱に漂着してゐる、日本軍上陸部隊は約一千名と概算され、調査の結果装具は完備し火炎放射器、手榴弾放射器等をも携帯していゐたことが判明した [25] 〔 ソロモン諸島 グワダルカナル島米國陸戰隊本部にてトレガスキスINS特派員八月二十一日發 〕=遅着、グワダルカナル島のテナル河戰は十四時間にわたる激戰であつたが日本軍上陸部隊は包圍殲滅され、戰死者七百五十名の見込みで、大敗の一つを喫した、以下はテナル河激戰記である(以下略)
  6. ^ ○(第二艦隊(六八七-=一四-一九〇〇)大宮島到着ノ時期、一木支隊ニ対スル本職ノ作戦指揮ヲ解ク。[28]
  7. ^ 陸軍 ○一木支隊、大宮島七日発皈還ノ処ヲ呼ビ返ヘシ、一応大宮島ニ戻リ搭載変シ、「十七軍」ニ編入ノ予定。[30]
  8. ^ 第4駆逐隊司令を佐藤康夫大佐とする二次資料がある[20]。だが佐藤大佐は朝潮型駆逐艦で編制された第9駆逐隊司令である[32]
  9. ^ 〔上欄〕昨夜ノ第八艦隊ノ夜襲ノ成果デ大イニ気ヲヨクシテ、ソレナラMO作戦ハ極力予定通リヤリ、「ツラギ」「ガダルカナル」ニハ成ルベク早ク陸軍ヲ上陸セシメ、飛行場ヲ敵ニ使ハセズニ我陸戦隊ノ対抗中ニ救援スルコトガ出来ルカモ知レヌトシテ一木支隊ト四一聯隊ヲ手配スレバ、二十二、三日ニハ上陸出来ルコトニ参本側ハ手配ス。(以下略)[39]
  10. ^ ○聯合艦隊(九-二一〇〇)第四駆逐隊(第二小隊欠)ハ一木支隊ヲ護衛シ トラックニ回航スベシ。トラック着後外南洋部隊ニ編入。《一木支隊ハ大宮島ヨリ皈還セントスルヲ止メ、初メ ラボールニ使フタメ トラックニ向ケシメシガ、陸軍部隊集結上「パラオ」ニ向カハシメ、再ビ速ニ「ツラギ」方面ニ赴カシムルタ〔メ〕トラックニ向ケタルナリ》[43]
  11. ^ ○一木支隊、十二日一八三〇「トラック」着、糧秣、石炭補給、十四日終了見込。第二水雷戦隊ハ之ヲ護衛スベク準備中ニシテ、十五日到着ノ予定。支隊ハ同隊来着ヲマツテ、出港スル時ハ十六日朝ノ見込、何レニスベキヤ至急返。[45]
  12. ^ ○第十一航空艦隊(一三一九〇〇-一一=一三-一九〇〇)八月十三日一二〇〇迠ニ得タルガダルカナル、ツラギ方面情〔況〕ハ既電ノ通、敵兵力ノ概数、ガダルカナル友軍警備隊及通信隊ノ情況等、猶不明ナルモ、所在敵兵力ハ有力部隊ニ非ラザル算少カラザルノミナラズ、此際ガダルカナル攻撃ヲ遷延スルハ有ユル方面ヨリ見テ不利ヲ増大スベキヲ以テ、第十一航空艦隊、第ママ艦隊、第十七軍協議ノ結果、急速之ヲ奪回スルニ決セリ。上陸作戦兵力、一木支隊及横五特。上陸日、ガダルカナル八月十八日。陸戦隊ハ飛行場及附近確保迠、上陸後一木支隊長ノ指揮ヲ受ク。敵空母出現等ノ場合ハ延期スルコトアリ。[47]
  13. ^ 〔上欄〕○〇八一〇軍令部 第八艦隊(二三九=一四-〇八五〇)十四日付「キ」号作戦命令[49]
  14. ^ ○第四駆逐隊(十八-二一〇〇)上陸成功反撃ナシ《「ガダルカナル」挺進隊一木支隊》[55]
  15. ^ ○第四駆逐隊(一九-〇〇〇〇)揚陸終了。各艦所命ノ行動(?)ヲナセ《「ツラギ」砲撃ヲ敵放送ス。之モソノ行動ナルベシ》。[56]
  16. ^ 陸軍デハ一木支隊先遣隊ハ軍旗ヲ奉ジテ行ツテヰルノデ之ヲ全滅セシメテハ参謀本部トシテモコマル、一週間以上ニナルママ食モナクナルカラ海軍トシテ是非ナントカシテ欲シイトノコト。海軍ノタメニ「ガダルカナル」救援ニツギ込ンダノデ、海軍トシテモ何ントカセネバナラヌ。二十五日ハ一木支隊ニ対シ物糧投下ノ予定ナルモ、果シテ連絡所在ヲツキトメ得ルヤ猶疑問ナリ。[58]
  17. ^ ○第十一航空艦隊(二一-一二一八)聯合艦隊二一〇一〇二九四番電《「ガダルカナル」飛行場ニ敵機着陸、又敵空母出現等ニ鑑ミ、一木支隊ノ主力等ヲ海軍艦艇ニテ急送スル件》ニ対シ、第十七軍ト協議セル処、一木支隊ノ後続部隊ハ速射砲隊ナルヲ以テ洋上移動困難ナルノミナラズ、地形上戦闘力少シ。先発一木支隊ハ精兵ナルヲ以テ飛行場占領ニハ充分確信有リトノ陸軍意見ニ鑑ミ、増援急派ノ要アリトセバ金龍丸ノ海軍特陸ヲ哨戒艇ニ移乗セシメ急行セシムルヲ可ト認ム。一木支隊後続隊ノ上陸ハ二十四日ヨリ遅延セシメザルコトトシテ、海軍特陸ノ急派ハ第八艦隊ニ一任セラル。[12]
  18. ^ ○〔第四駆逐隊司令〕(一九-一六〇五)「萩風」ヲ視察ス、トラック回航可能ト認ム、「嵐」護衛ノ下ニ一六三〇発。[61]
  19. ^ ○第八艦隊(二〇-二〇一七)ガダルカナル通信基地ノ報告ニ依レバ敵艦上機二〇(?)機、内戦闘機二、一四二五旧飛行場ニ着陸セルモノノ如シ。[64]
  20. ^ ○第四駆逐隊(一九-一一〇七)挺身隊情報第一号/一、一木支隊ハ夜間前進、昼間休養シ、二十日(敵情ニヨリ二十一日)夜、飛行場奪取ノ予定、目下「テテレ」(タイボ西方一五粁)ニアリ。/二、敵兵約三〇〇名味方陣地ノ西5000米ニ上陸、基地隊ハ腹背ニ敵ヲ受クルニ至レリ。尚敵砲撃ノ為二粁後退セルハ既電ノ如シ。[67]
  21. ^ (中略)◇正に午後四時、今、日本軍陣地を下方より挟撃すべく日本軍を包圍してゐた陸戰車隊は我等の軍隊に参加した、我が戰車隊は、日本軍の猛射撃にも拘らず、敵軍掃蕩戰より歸つて來た、一戰車は戰車反撃榴彈のため活動不能とされた(但し死傷者無し)、日本軍最後の組織された陣地は掃蕩された、日本主力軍確保の椰子林には未だ狙撃兵がゐるが併し少數だから數時間を經ずして一掃されるだらう、だから、信じ難い程の殺戮を演じて重に日本兵の死體が遺棄されてゐる中を歩くにもかなり安全だ、日本兵の死骸がテナル河口にある沙洲に沿ふて長い不規則な線を成して散亂してゐる、之等の死骸は、日本軍が橋頭を渡河して、テナルの西岸にゐる強力な米軍になだれ込まうとした努力を證明していゐる/ ◇沙洲の向ふ側、テナル河東岸にある椰子林の、野戰砲弾の爲め撃ち折られた株や戰車に壓し潰されて平たくなつた樹幹の中央に山積されてゐる彈丸や狐穴は、日本軍の機關銃や輕野戰砲陣地の遺棄物である、實際の遺棄死體數は、沙洲に百七十六個、林の前方に並ぶトタン家屋内に三十六個、それから泳いで逃亡せんとして射殺された者は約五十名と見積まれた、之が一日半前夜夜陰に乗じて當島へ遠征した日本軍の最後だ、彼等は六隻の驅逐艦に便乗して、テナル河東岸約三十哩の地點に上陸したのであつた/ ◇彼等は確に第一戰に立つ精兵軍で、我々が當島で捕虜にした貧弱な兵隊よりも大きな體軀であつた、それして彼等は銃、機關銃、野戰砲、臼砲、榴彈及び火炎放射器等で軍装されてゐた、陸軍現役兵よりなるこの軍隊は上陸に成功して、開戰前迄にこのテナル河迄降つて來た、カネツテカ州マデソン出身のクレスウェル中佐の數隊より成る一團は、その時日本軍團を下方より包圍してその袋口を閉鎖した、ケース中尉の指揮する戰車隊が日本陣地へ突入した、之が大體日本軍敗北の戰話概要である[25](以下略)
  22. ^ ○「ガダルカナル」通信基地(二一-〇六〇〇)〇四〇〇離陸セル戦闘機五ハ〇五〇〇乃至〇五三〇間ニ着陸、其ノ後ハ離陸セズ。銃砲声ハ引続キ飛行場附近ニアリ《一木支隊飛行場ニ夜襲セルモノラン、支隊ノ挺身上陸セルモノ九〇〇名トノコト、大丈夫占領スルナラン》。[73]
  23. ^ (中略)◇我が陸戰隊は、兵數、軍備、總ての點に於て優勢であつた、テナル河岸に對陣を敷いてゐた一小隊が對岸の狙撃兵と會戰し出したのは夜半を少し過ぎた今朝のことであつた、狙撃兵の發射それ自信は當島に於て敵兵力を指示する程のものではなかつた、多分未だ數十名の狙撃兵がゐて時々前哨戰を惱ます程度のものだらう、最初、我が小隊はさほど驚かされなかつた、併し午前二時十分になつて小隊は單なる一二名の浮浪狙撃兵に反抗されてゐるのでは無いことが判つた、日本軍の機關銃や自動車隊が射撃を開始したので此方の河岸からもそれに應戰した/ ◇後方へ援兵を要求すべく通信を發したが、三時頃になつてテナル河の沙洲へ渡ることに成功した日本軍は我が陣地へ突撃を始めた、日本兵多數が射殺されたが少數は沙洲を渡つて一人が榴弾を我が陣地へ投下した、出洲を渡らうとした他の日本兵も又射殺され殘存兵は我が陣よりの猛撃に會つて退却した、未明の數時間中、日本兵は幾回となく渡河して米陣地を掃蕩せんと試みたがその度毎不成功に終つて多數の死體を河岸に遺棄い去つた 陸戰隊の増援軍が重武器を備へて前哨線へ到着しつゝあつた、そして、次々と試みたれた日本軍の攻撃は以前に増して損害を大ならしめた、米軍は射撃線を敷設した日本軍が沙洲へ這ひ寄らうとする度に猛射撃が爆發され突撃軍に應戰した 併し日本軍は米軍陣地に用心する所となり、朝の四時頃彼等は丁度米軍が伏せてゐる個所へ照明彈を發射し出した、だが米軍は地面を掘下げ陣地を改善した、そして其の時暫時的に敵が優勢になることを知りつゝも彼等を喰い止めた、我が野戰砲が日本陣地へ發砲を開始した[25](記事おわり)

出典

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  85. ^ 『官報』第4763号「叙任及辞令」1942年11月26日。


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