牟田口廉也
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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
- ^ 佐賀中学在学中の牟田口は書道が苦手であったが[5]、後年の牟田口は「達筆」と評されるレベルに達した[6]。
- ^ 行方不明とされた志村菊次郎二等兵は点呼20分後に見つかったが、一時行方不明になったのは用便中であったとか、道に迷って中国兵の陣地に近づいたため発砲されたが、叱責を恐れて事実を告げなかったなど諸説あるが、志村はこの後戦死しており真相は不明である[38]。
- ^ 軍事機密保持のため「連」の字が伏せられている。
- ^ 藤井は虐殺事件については全く関与しておらず、その事実も知らなかった。
- ^ 大将に昇進するためには陸大卒業の席次は10番以内が条件と言われていた。
- ^ 当時学生であった秦が、自分を批判するために訪問したのではないと知ると途端に自己弁護の話を始めるなど、当時から相手に応じて態度を変えていたという指摘もある[200]。
- ^ 一ノ谷の戦いで源義経が行ったとされる奇襲戦法「鵯越の逆落とし」のこと、牟田口はこの故知に因んでインパール作戦の奇襲攻撃作戦を「鵯越作戦」と称した。[166]
- ^ これは本作戦に反対していた当時の南方軍総参謀副長稲田正純少将(作戦開始前に更迭)が、同師団をビルマに早く到着させると牟田口が作戦開始を前倒しにし兼ねないと危惧し、連合軍の反抗開始で政情不安となっていたタイ国に、その抑えと、ビルマ作戦のための道路構築などのインフラ整備を目的として派遣していためであった[218]
- ^ 高木は第5飛行師団付の映画報道班員で、報道映画撮影のために第5飛行師団で待機しており、実際にインパールの戦場に出ることはなかったので[232]、作戦の細部については知ることはなく、戦後になってからインパール作戦について取材している[233]。
- ^ 出版当初は牟田口のことを与田内将軍と記述するなど、登場人物が全て仮名であったが、後の再版のときに実名に修正されている[200]。
- ^ 『一九四四年ウ号作戦に関する国会図書館における説明資料』のこと。
- ^ 牟田口は波多野を元外交官と誤認していた[243]。
- ^ 高木は小説インパール5部作の「憤死」の後書きで、牟田口が前線でも芸者を引き連れて酒食にふけっていた確証を得たと主張しているが、実際にその確証が何であったのかは言及していない。またシュウェボでも牟田口ら第15軍司令部が酒食にふけったとも批判しているが、このソースは牟田口らを激しく批判していた佐藤の戦後にまとめた回想のみであり、高木も小説インパール5部作の「抗命」の後書きで、「事実かどうかは確かめていない、事実そのものは重要ではなく、そうした空気であったことを伝えるため」として佐藤の回想をファクトチェックもせずに採用したと述べている[277][278]。
- ^ 牟田口は葉隠思想の本場である佐賀県の出身。
- ^ スリムの高級指揮官に対する評価は「河辺将軍とその部下」として牟田口等を一括して取り扱っている[293]。
- ^ ただし、フェリスは太平洋戦域に対する知識は不十分であり、対日ソ連参戦時の関東軍の兵力を120万人と本書に記述しているが、実際は軍属も併せて70万人に過ぎなかった[295][296]。
- ^ エンドロールに取材協力者として記載。
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- ^ 『ダイヤモンド会社要覧 全上場会社版 1970年9月版』ダイヤモンド社、1970年、380頁 。
- ^ “戦慄の記録インパール”. www6.nhk.or.jp. 2021年2月3日閲覧。
- ^ 大田 2009, p. 286
- 1 牟田口廉也とは
- 2 牟田口廉也の概要
- 3 証言、人物評等
- 4 家族・親族
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