シンガポール華僑粛清事件
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シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた[1]。
注釈
- ^ 軍司令官・山下奉文中将
- ^ 司令官・河村参郎少将
- ^ 師団長・西村琢磨中将
- ^ 師団長・牟田口廉也中将
- ^ 師団長・松井太久郎中将
- ^ 隊長・大石正幸中佐
- ^ 市川正少佐
- ^ 宮本菊松少佐
- ^ 俘虜関係調査中央委員会における補助憲兵隊の将校の証言では、処刑には憲兵も立ち会っており、処刑方法も憲兵隊長が決定したとされる[23]。
- ^ 戦後にシンガポールの首相となったリー・クアンユーは、回顧録の中で、自身も当時、命令に従って集合場所に集まったが、青年華僑の集団に加わるよう指示された際に身の危険を感じて「荷物を取りにいきたい」と申し出て禁区内にあった友人宅に戻り、1日半ほど潜伏していたところ、理由は分からないが審査済とされて帰宅を許可され、危うく難を逃れたと述べている[26]。
- ^ 1945年10月にシンガポールからマニラに派遣された英軍ワイルド大佐が行った尋問に対し、山下はシンガポールの華僑粛清は憲兵隊に責任があると回答していた。しかし、山下は作戦当時の第25軍の最高責任者であり、起訴されれば主犯格として有罪になっていたものとみられている[45]。
- ^ 後に辻は逃亡の体験記で国民の人気を得て世間に再登場し、国会議員にも当選した[48]。
出典
- ^ この記事の主な出典は、東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-206頁、林(1998) 210-250頁、林(2005) 163頁、林(2007)および井上ほか(2010) 144-151,182-190頁。
- ^ 林(1998) 212頁
- ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 201頁、林(1998) 212,228,250頁
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- ^ メンバーリストの性質については(林(1998), p. 219-220)を参照。
- ^ 林(2007), p. 57-58、林(1998), p. 217-218
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- ^ a b c d 許 雲樵、蔡 史君 編、田中 宏、福永 平和 訳『日本軍占領下のシンガポール』(株)青木書店、1986年8月15日、33-34,25,29,59-72頁。
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- ^ 杉森(1982) 133頁
- ^ 大西(1977) 70頁 73-4頁、河村(1952)166頁
- ^ 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年、70頁。
- ^ 杉森久英『参謀・辻政信』河出書房、133頁。
- ^ 井上ほか(2010) 150頁。
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- ^ 『星洲日報』、1962年5月1日。
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- ^ 岩川(1995) 200頁。
- ^ [出典] 日本外交主要文書・年表(2),727-728頁。
- ^ シンガポール日本人会 「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み ”日本占領時期死難人民記念碑”(篠崎護)80-82頁 “現地の人々に喜ばれた”(同)82頁、南洋商報 (1976年2月16日) “日治蒙難人民紀念碑‐舉行九週年祭奠” 18頁
- ^ 林(2007), p. 15.
- ^ Straight Times 2.16
- ^ The Onlinecitizen, Singapore「Over 700 people commemorated 75th Anniversary of the Fall of Singapore during WWII at Kranji War Memorial Published on 2017-02-17 by Neyla Zannia」
- 1 シンガポール華僑粛清事件とは
- 2 シンガポール華僑粛清事件の概要
- 3 戦犯裁判
- 4 戦後への影響
- 5 参考文献
- 6 関連図書
シンガポール華僑粛清事件
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「シリル・ワイルド」の記事における「シンガポール華僑粛清事件」の解説
1946年8月下旬から9月上旬にかけて東京で行った調査で、ワイルドは、それ以前の米国の調査で見落とされていた26件の日本軍の報告書を見付けた。その中に、俘虜関係調査中央委員会第4班がまとめた「シンガポールにおける華僑処罰に関する調書」と題した「秘密」扱いの文書があった。その内容はシンガポール華僑粛清事件への軍の関与をいかにして誤魔化すかを検討したものだった。 報告書をまとめたのは元第25軍参謀・杉田一次中佐だった。ワイルドは個人的にも杉田が中国系住民の殺害に関与していたことを知っていたため(後述)、1945年8月の最終週に巣鴨プリズンへ行き、華僑殺害への関与の容疑で杉田を正式に逮捕し、軍用機でシンガポールへ送致した。 1946年9月10-11日、東京裁判でワイルドは、シンガポール陥落後の1942年2月22日にニュービギン准将の通訳として日本側代表の杉田一次参謀と交渉した際に、英軍側が100名以上の中国系住民がチャンギーの収容所の外の海岸で機銃掃射によって殺されたことと英軍捕虜が死体の埋葬作業を命令されたことについて抗議し、今後中国系住民の殺害や部下の死体埋葬への使役を行わないことを申し入れた際に、杉田参謀が「是等の華僑は悪い人間である、であるからして彼等を射殺したのである」「我々は何時でも悪い奴が見つかったならば、こちらの欲する時に射殺するのである」と答えた、と証言した。 しかし1946年9月にワイルドが死去すると、華僑粛清事件の裁判が始まる前に、杉田は釈放され、検察側の証人となった。
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