シンガポールの戦い
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シンガポールの戦い(シンガポールのたたかい、英: Battle of Singapore)は、第二次世界大戦/大東亜戦争(太平洋戦争)初期の1942年2月8日から2月15日にかけて、イギリスの海峡植民地のシンガポールで大日本帝国陸軍と連合国軍の間で行われた戦闘である。
- ^ Churchill, Winston (1986). The Hinge of Fate, Volume 4
- ^ a b c オーエン(2007年)、171-172頁。
- ^ オーエン(2007年)、178頁。
- ^ 陸海軍航空部隊、英軍航空基地など攻撃『東京日日新聞』(昭和16年12月10日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p446 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 英軍、マレーの制空権喪失と発表『朝日新聞』(昭和16年12月16日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p446
- ^ 立川京一 (2002年9月). “マレー・シンガポール作戦 -山下奉文を中心に-” (PDF). 防衛研究所. 2011年11月23日閲覧。
- ^ 太平洋戦争の年表 社団法人 日本戦災遺族会 昭和54年度「全国戦災史実調査報告書」 2017年10月5日閲覧
- ^ “日本びいきのアイリッシュ 大戦「シンガポール陥落」…首都では日本領事囲み祝賀会”. 産経新聞. (2017年2月5日)
- 1 シンガポールの戦いとは
- 2 シンガポールの戦いの概要
- 3 背景
- 4 日本軍による占領
- 5 シンガポールの戦いを扱った映画
- 6 外部リンク
シンガポール陥落
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詳細は「シンガポールの戦い」を参照 日本陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸は成功し、その後、地上と海上の双方でイギリス軍に対する作戦を成功させマレー半島制圧へと進むこととなった。スリム河の戦い(英語版)においては、島田豊作少佐率いる九七式中戦車を主力とするわずか1個中隊18輌の戦車が、イギリス軍2個師団が守る陣地を夜襲で突破するなど、イギリス軍を圧倒しながらマレー半島南部に追い詰めていった。 マレー半島を南下した日本陸軍は、大英帝国の東南アジア支配の拠点で、ジブラルタル要塞と同様に巨費を投じて構築されたシンガポール要塞への攻撃を開始した。英国首相チャーチルは司令官のアーサー・パーシヴァル中将に死守を命じて、続々と援軍を送っており、パーシバルは4個師団相当の85,000人もの大兵力を指揮していた。その兵力の多くはイギリス本国軍やオーストラリア軍から構成され、主力戦車は配備されていなかったものの十分な装備に加えて、航空戦力でもバトル・オブ・ブリテンで活躍したホーカー ハリケーンMk.IIが100機送られた。しかし、シンガポール要塞は東方海上からの攻撃に備えて構築され、主力兵器の 15インチ(380㎜)要塞砲(英語版)などの要塞砲は海側を向いて設置されており、マレー半島を走破してジョホールバルから進攻してくる日本軍に対して役に立たなかった上、第25軍の3個師団36,000人の日本軍に倍する兵力を有しながら、訓練不足などで兵力での優位を活かすことはできなかった。 まずは、菅原道大中将率いる第3飛行集団がシンガポールを爆撃、ハリケーンを主力としたイギリス空軍が迎撃するも、陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機「隼」を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊がハリケーンを次々と撃墜し、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた格好となってシンガポールの制空権は日本軍が確保した。第3飛行集団はシンガポールを連日爆撃し、たまらず極東のイギリス空軍司令部はシンガポールから逃亡し、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に退避してしまった。空からの援護で第25軍はシンガポールに上陸、激戦の末、シンガポールの水源地であり、大量の物資・弾薬が貯蔵してあったブキッ・ティマ高地を奪取すると、パーシバルはたまらず第25軍の司令官山下奉文中将に降伏を申し出た。マレー半島の戦いも含め大英帝国は死傷者20,000人に加えて、イギリス兵35,000人、オーストラリア兵15,000人、インド兵67,000人、現地義勇兵14,000人の合計131,000人以上が捕虜となるなど甚大な損害を被った。パーシバルに死守を命じていたチャーチルはこの敗戦に衝撃を受けて『大英帝国史上最悪の災害と最大の降伏』と後々まで悔やむこととなった。 中立国ポルトガルの植民地に対しても、英国の勢力圏であったオーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港や中国大陸に近接するマカオについては当初、日本軍は中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。しかし、オランダ軍とオーストラリア軍が中立担保のためとして東ティモールを保障占領したため、日本軍がオランダ領の西ティモールと同時に占領し、ポルトガル政府の黙認の下、マカオとともに事実上の統治下に置いた。
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