日中戦争時代
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日中戦争時代初期、郁達夫は『福建民報』の副主編であった。1938年に家族を連れて武漢に移り、政治部設計主任、中華全国文芸界抗敵協会常務理事に任命された。徐州に赴き、軍を慰労し各地の前線に赴いている。同年末、家族と共に南洋(東南アジア)に移り抗日を宣伝した。 1938年12月にシンガポールに移り、『星洲日報』の文芸副刊『晨星』、『星洲晩報』の文芸副刊『星光画報』の文芸版主編に任じられた。文化芸術活動に熱心であり、当時シンガポールに足を泊めていた画家の徐悲鴻、劉海粟、音楽家の任光経と常に親しくしていた。郁達夫は星洲日報に務めている三年ほどで、400編以上の抗日の論文を発表している。後に台湾の学者秦賢次の手により『郁達夫南洋随筆』、『郁達夫抗戦文録』の二冊の本にまとめられた。(台北:洪範書店、1978) 1940年、郁達夫は「新加坡南洋学会」の創建人の一人となる。 1941年末、太平洋戦争が勃発すると、郁達夫も「星華文化界戦時工作団」の団長、「華僑抗敵動員委員会」の執行委員になり、「星洲華僑義勇軍」を組織する。しかし日本軍によってシンガポール陥落後、郁達夫もスマトラに避難する。
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日中戦争時代
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1937年8月、盧溝橋事件からの戦火を避けるために天津版は停刊し、9月に漢口へと移転した。同年12月には上海版も停刊し、上海の拠点は香港へと移転した。1938年10月に漢口版を停刊し、重慶へと移転した。1941年12月には太平洋戦争開戦のため香港版も停刊し、一時桂林に移転した。 戦後は天津版、上海版、香港版が復刊し、重慶版と合わせて4地域で発行された。1946年には上海に本社が定められた。
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