日中戦争時の叛服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/23 06:35 UTC 版)
1933年(民国22年)5月、馮玉祥が張家口で察哈爾民衆抗日同盟軍を結成し、孫良誠は同軍で騎兵挺進軍軍長に就任する。6月には抗日同盟軍軍事委員会常務委員に就任した。しかし、蒋介石が馮を討伐しようと包囲してくると、孫は病気と称して張家口に戻り、このために馮の怒りを買ってしまう。8月、馮は下野に追い込まれ、抗日同盟軍も宋哲元に接収された。孫は天津に逃げ込んだ。 その後の孫良誠は引退状態となっていた。日中戦争勃発後の1939年(民国28年)、冀察戦区司令兼河北省政府主席の鹿鍾麟から冀察戦区遊撃指揮官に任命され、ようやく前線に復帰する。1940年(民国29年)春、魯西行署主任に任命された。しかし、国民政府中央からは装備・補給など様々な点で冷遇され、1942年(民国31年)には魯西行署主任を罷免された。 不満を抱いた孫良誠は、ついに南京の汪兆銘政権に帰順した。以後、南京国民政府の第2方面軍総司令、開封綏靖公署主任、蘇北綏靖公署主任などを歴任した。 日中戦争終結後は、孫良誠はそのまま蒋介石の国民政府への復帰を許され、第2路軍総指揮に任命された。その後、国共内戦に参戦している。しかし、1948年(民国37年)の淮海戦役で敗北し、一度は人民解放軍に降伏した。まもなく孫は逃走し、南京を経て上海に移る。だが、上海が人民解放軍により制圧されると、孫は再び逮捕された。 1951年5月10日、収監先の蘇州市で獄死した。享年59(満57歳)。
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