日中戦争前後
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日中戦争開始前、日本は数度にわたって曲阜に使者を出し、関東大震災後に再建された湯島聖堂の孔廟の落成式に参加してほしいと要請したが、今後日本軍による傀儡として利用されることを恐れてこれを拒絶した。日中戦争勃発後の1937年12月に兗州七十二師師長孫桐萱は蒋介石の命を受けて、孔徳成夫婦を避難させた。1938年1月、曲阜が陥落したことを受けて武漢で抗日宣言を発表した。その後重慶に移り、この時に成立した孔学会の主宰となり、討論と講演会を通じて孔子の学術思想と民族精神の研究と宣揚に努めた。当時、重慶には中国各地から避難してきた学者が集中しており、伝統文化に対して様々な研究方法が議論された。孔徳成の受けた衝撃は大きく、著名な学者の王献唐に師事し、さらに学問の方法論を傅斯年と屈万里から教わった。 1945年に戦争が終結すると、上海に移った。1947年3月には曲阜に戻った。1948年3月29日、国民大会代表に選ばれた。同年にアメリカ合衆国に文化研究に赴き、イェール大学の研究員となった。翌年3月に帰国し、香港・マカオ・広州を訪問した。
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日中戦争前後
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北伐終了後の馮玉祥と蒋介石の対立でも、龐炳勲は馮を支持して中原大戦などで戦った。しかし張学良軍の攻撃を受けて敗北し、これに降伏した。張の下では第40軍軍長に任命されている。 1931年(民国20年)の満州事変、1933年(民国22年)の長城抗戦にも参加した後、同年5月に馮が組織した察哈爾抗日同盟軍に加わった。しかし、龐炳勲は察哈爾省政府主席の地位を提示した蒋の篭絡を受けて寝返り、馮を下野に追い込んでいる。ところが、現に省政府主席の地位に在った宋哲元への蒋の配慮から、結局約束は履行されず、龐は河南へ移駐させられた。 1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後は、龐炳勲は部隊を率いて最前線の各地で勇戦する。特に、1938年(民国27年)3月には、張自忠らと連携して、板垣征四郎率いる第5師団に臨沂で大打撃を与える軍功をあげた。その後も軍功を重ね、1939年(民国28年)10月に第24集団軍総司令兼第50軍軍長(3個軍統括)に昇進し、1940年(民国29年)には、河北省政府主席等をつとめた。
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日中戦争前後
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1935年(民国24年)12月、日本の侵攻に備えるための国民政府改組により、汪兆銘(汪精衛)が行政院長を退いて蔣介石がこれを兼任すると、張群は外交部長に任命された。張群は日本との交渉にあたったが、翌年1月21日に日本の外務大臣広田弘毅が発した「広田三原則」に対してこれを拒絶する声明を発した。引き続いて行われた有田八郎との交渉でも、蔣介石と防共協定を締結する案に対して、日本側に譲歩する姿勢を一切見せなかった。さらに、同年に四川省・広東省で発生した日本人殺害事件の発生が中日双方の対立を激化させ、ついには外交交渉の完全な停頓に至っている。しかし張群は中国との間の防共の問題は北支方面における地域としては防共協定はやってもよろしいと述べている。 1937年(民国26年)2月、張群は中央政治委員会秘書長兼外交専門委員会主任委員に任じられた。同年7月の盧溝橋事件による日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、軍事委員会秘書長となった。翌年1月、行政院副院長に任命され、1939年(民国28年)には国防最高委員会秘書長をつとめた。 その前の1938年(民国27年)1月、日中戦争の後方支援体制整備のため、病死した劉湘の後任として四川省政府主席に任命された。しかし、中央勢力浸透を嫌う四川軍指揮官たちの反発を買ったため、張群もやむなく主席を退き、軍事委員会委員長重慶(四川)行営主任に異動している。1940年(民国29年)11月、ようやく四川省政府主席となり、あわせて軍事委員会委員長成都行轅主任も兼ねた。これにより、四川省の人力・財力を動員して、後方支援体制の整備に成功している。1944年4月には、B-29の日本空襲のため、成都周辺の飛行場建設をほぼ完成させた。
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