中央政治とは? わかりやすく解説

中央政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「中央政治」の解説

江戸時代征夷大将軍徳川氏中心として、武士階級支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層武士と被支配階層である百姓町人の以上3つの身分基礎としていた。それまで武士と農民分離していなかったが、豊臣秀吉刀狩り武士城下・町人は町屋農民村落住居固定されるなどにより、武士階級農民明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代各階層にある程度流動性見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民多く幕府はしばし帰農令を出している。また、全国諸藩には、郷士呼ばれる自活する武士存在した。彼らは城下住み藩主から俸禄もらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末活躍した人々には、勤王方、幕府方問わず下級藩士郷士町人など軽輩階層出身者であった者が多い。 幕府朝廷の関係については諸説ある。関白太政大臣務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康征夷大将軍就任外戚関係を結ぶことで朝廷権威利用した戦国時代以来領国一円領域支配行った公権力公儀と言い、特に天皇権威一体化して全国支配達成した徳川幕府を指す。幕府禁中並公家諸法度制定紫衣事件などを通じて朝廷支配強めていった。新井白石は『読史余論』で江戸幕府成立朱子学に基づき革命捉え幕府正当性主張した本居宣長松平定信大政委任論唱えたが、それは幕府権力肯定する立場立ったのだった松平定信尊号一件朝廷対立した)。宝暦事件竹内式部や、明和事件山県大弐霊元天皇など、朝廷権力取り戻そうとするものもいた。『大日本史編纂過程成立した水戸学吉田松陰などの思想家天皇による支配正統性説き倒幕運動明治維新志士学ばれた。 幕府江戸大坂京都町奉行・所司代を置き重視したが、そのほか伊豆日田長崎新潟飛騨重要な鉱山代官配置し支配した。これらの支配力は単に一都市限らず京都所司代山城丹波近江など、大坂町奉行西日本諸国天領采配それぞれ許されるなど、管轄地諸大名監察する役目もあった(京都所司代朝廷監視していた)。ただし、彼らの用い兵力はほとんどなく、18世紀初頭長崎奉行10数人幕末五条代官所でも30人かいなかった幕府政治力経済力分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万程度の低い石高しか充てられなかったのに対し幕政関与することを決して許さなかった外様大名多くには数十万石大封国持大名格式与えられた。しかもその幕閣ですら、大老特例除き定員4 - 5名の老中が重要案件合議で、日常案件月番制で決裁を行うという権力分散比較早い時期図られている。これは室町幕府において三管領一家あり、か複数大国守護兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対す反省である。

※この「中央政治」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「中央政治」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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