中央政界での出世
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「ドミトリー・ウスチノフ」の記事における「中央政界での出世」の解説
1952年10月に党中央委員会委員となり、1953年3月5日のスターリンの死後、軍需省と航空産業省が統合されて国防工業省が創設された際には新たに国防工業相に任命され、フルシチョフ政権で引き続きソ連の軍産複合体を統括することとなった。1957年12月にロケット・兵器・原子力産業担当の閣僚会議副議長(副首相)となり、ミサイルやロケットの開発を推進した。1961年4月のユーリ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行を成功させた功により、再度「社会主義労働英雄」の称号を得た。1963年3月に閣僚会議第一副議長(第一副首相)となり、軍需の他に民間工業も担当した。 1964年10月、フルシチョフが失脚してブレジネフが党第一書記となると、再び軍事工業部門に復帰する。1965年3月に党政治局員候補に選出され、1965年3月の第23回党大会で党中央委員会書記(国防産業担当)に就任し、これを1976年10月まで務め、軍・軍事工業・特定の治安機関を指揮した。また、戦略爆撃機と大陸間弾道ミサイルシステムの開発も担当し、アメリカに拮抗する核戦力を構築した。1976年3月には党政治局員となった。同年4月26日、国防相のアンドレイ・グレチコ元帥が在職中に死去すると、後任として文民として初の国防相に就任し、あわせて4月29日には上級大将に昇進した。次いで7月30日にソ連邦元帥の称号を授与された。ウスチノフはニコライ・オガルコフ参謀総長ら軍の将軍と共に、ソビエト連邦軍の発展と近代化を推し進めた。そして1979年、ウスチノフは「ソ連軍は党と国民から求められる任務を遂行することができるハイレベルな段階にある。」と自信を持って断言した。 同年にはアフガニスタン戦争の開戦を決定する政治局会議に参加した。KGB議長のユーリ・アンドロポフと共にアフガニスタンへの軍事介入を強く主張し、同年12月24日、ソ連軍がアフガニスタン侵攻を実行するに至る。
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