中央政界へ
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床次は日露戦争後には既に政界入りを考えており、政党としては立憲政友会を考えていた。明治38年(1905年)12月秋田県知事に任じられたが、中央で働きたいと転勤前の東京で初対面の原敬内務大臣に直訴したところ、見所があると認められて重職である地方局長に抜擢された(1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣で内務省地方局長に就任。このとき、神社局長であった水野錬太郎とともに、神社合併を推進していくことになる。これは各地域の信仰、宗教的心情を鑑みずに行った強引なものであり、神社行政に携わった当局者たちがそういった実態をろくに見ずに進めたことに起因している。そしてこの時期の官僚の宗教的信仰に対する理解(あるいは不理解)の平均的代表が床次であったと橋川文三は指摘している。なお床次自身は皇祖皇太神宮天津教の信奉者であったとされる)。このため知事は未赴任のままとなった。抜擢直後に床次を政友会代議士に引き合わせた原は「(床次のことを)この人は敏腕家ではないが、決してうそをつかぬから安心して交際してもまちがいない」と紹介した。当時の内務省は山県閥の勢力が強く、原は閥外の床次を抜擢することで山県閥の勢力を削ぎ、政友会の政治力を高めることを意図した。以後、床次は内務大臣だった原敬に重用され、この頃原が進めた両院縦断に従事する。床次は主に研究会との折衝に当たり、立憲政友会と研究会双方との関係を深めていく。のちに床次の一派である政友本党が清浦内閣の与党となるのは、この時の縁が関係している。もちろん欲得ずくでもあった。政友会の議員は、原が実業家に出馬を勧めたという経緯のために、経綸を持って政治にあたるというよりも、事業のついでに議員を務めるようなもの、あるいは政治屋とも言うべきものもおり、与党依存心理が極めて強かったのである。また、在任中に宮中某重大事件が発生し、新聞記者組合から情報の解禁要求を突きつけられている。その後も原内相のもと、郡制廃止に努力するも貴族院の反対で頓挫した。明治41年(1908年)、樺太庁長官を歴任。 明治44年(1911年)、第2次西園寺内閣が成立し、再び内務大臣となった原が床次を内務次官に起用した(当時の床次は44歳、同期任官38人中で他に次官まで出世したのは橋本圭三郎大蔵次官のみ)。大正元年(1912年)、「二個師団増設問題」により第2次西園寺内閣は総辞職に到り、原内相と共に次官を辞任した。辞任後の床次を原は貴族院に推薦しようとしたが空き議席が不足していたため見送られた。 大正政変を経た大正2年(1913年)の第1次山本内閣の成立時には首相と同郷の薩摩出身者であることから薩派と政友会の連絡役として活躍した。その功績もあって山本内閣では鉄道院総裁に就任。これは内閣書記官長や法制局長官と同じく準大臣級の重職であった。総裁として鉄道幹線広軌化計画の中止(このため、島安次郎をはじめとする広軌改築論者が鉄道院を去っている)と地方路線拡張方針を打ち出した。 詳細は「日本の改軌論争」を参照 床次は最後の鉄道院総裁となった。この業績を記念して、鉄道省玄関に胸像が飾られたが、のちに金属類回収令のために供出されている。
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温家宝が甘粛省から北京の国務院に移った当時、共産党総書記であった胡耀邦は若手の有能な人物の登用を進めていた。地質鉱産部長(大臣)の孫大光の賞賛を受けた温は、1983年10月に地質鉱産部副部長(次官)に就任した。その後胡耀邦によって抜擢され、1986年5月に党中央弁公庁主任となる。1993年に中央財経領導小組秘書長に転出するまで、温家宝は胡耀邦・趙紫陽・江沢民の3代の総書記の下で中央弁公庁主任を務めた。温はこの3人の総書記に仕えた唯一の人物である。1987年11月には党中央委員に選出され、党中央書記処候補書記となる。 1989年5月19日に民主化を要求して天安門広場を占拠した学生たちと対話を試みるため、趙紫陽は彼らの下へ向かった。温家宝は趙に同行した(天安門事件を参照)。この趙の行動は「重大な反抗」とされ、趙は総書記を解任されて失脚、2005年1月の死まで自宅軟禁に置かれた。しかし温は、当時の立場や自己批判が考慮されたことで、天安門事件の余波を受けて失脚することも無く政治的に生き残った。 その後1992年10月に党政治局候補委員・中央書記処書記となり、1997年には党政治局員となった。そして1998年に朱鎔基内閣が発足すると、温家宝は金融・農業担当の国務院副総理に任命された。朱内閣において温は経済・農業・財政・防災政策を監督し、中国の重要方針である世界貿易機関への加入の準備活動に従事した。温は1998年から2002年まで中央金融工作委員会の書記を務めた。
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