尊攘派公家の代表
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文久2年(1862年)、島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始めることとなる。5月10日には久光の意見を入れるとともに、関白九条尚忠をすみやかに退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出している。翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷の中枢に触れる事ができるようになった。実美を引き立てたのは実万の教えを受けた中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった。本来実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた。 7月から8月にかけては、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。さらに父実万の養女を妻としていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた。この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった。 8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した。6月には大原重徳が薩摩藩の運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動きは薩摩藩の影響力を削ぐねらいもあった。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月には勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いている。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった。
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