尊攘派公家の代表とは? わかりやすく解説

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尊攘派公家の代表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)

三条実美」の記事における「尊攘派公家の代表」の解説

文久2年1862年)、島津久光上洛すると、実美は活発な活動始めることとなる。5月10日には久光意見入れとともに関白九条尚忠すみやかに退任させ、旧例とらわれず関白を選ぶべきであるとする上書提出している。翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷中枢触れる事ができるようになった。実美を引き立てたのは実教え受けた中山忠能親類筋正親町三条実愛であった。本来実美は公武合体論であったが、一向に攘夷進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派志士との交流深めるようになっていた。 7月から8月にかけては、公武合体派公卿であった内大臣久我建通岩倉具視始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し失脚追いやった。さらに父実養女を妻としていた土佐藩山内容堂働きかけ藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩中央政界へ進出させた。この時期、実美ら始めとする、朝廷権力増大させようという朝廷改革派勢力伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論立場に立つ孝明天皇考えとは大きく異なるものであった8月には長州藩土佐藩が、14代将軍の徳川家茂攘夷再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した。6月には大原重徳薩摩藩運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動き薩摩藩影響力削ぐねらいもあった。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書出し10月には勅使正使として、副使姉小路公知とともに江戸へ赴いている。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった12月9日には国事御用掛設置され、実美はその一員となった

※この「尊攘派公家の代表」の解説は、「三条実美」の解説の一部です。
「尊攘派公家の代表」を含む「三条実美」の記事については、「三条実美」の概要を参照ください。

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