尊攘運動と学習院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:52 UTC 版)
「学習院 (幕末維新期)」の記事における「尊攘運動と学習院」の解説
文久2年(1862年)7月頃より、学習院は桜田門外の変後急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場にあてられるようになり、また翌3年2月、無名の投文・張紙などの横行に対応し陳情建白の類を受け付ける機関となった。その結果学習院では、尊皇攘夷の急進派が集い、国事を議論するようになり、この時期「学習院御用掛」あるいは同「出仕」に任命された高杉晋作・真木保臣・福羽美静ら各藩の志士が、尊攘派公家とともに攘夷決行の密謀をめぐらしたのである。しかし文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」により尊攘派公家の処分とともに長州藩などの関係者も出入りを禁止され、陳情建白の受理も停止された。さらに元治(1864年)以後、教官には比較的政治色の薄い伴信友学派の国学者や咸宜園の儒学者が登用されるようになり、学習院は本来の教育機関としての姿を取りもどし大政奉還に至った。
※この「尊攘運動と学習院」の解説は、「学習院 (幕末維新期)」の解説の一部です。
「尊攘運動と学習院」を含む「学習院 (幕末維新期)」の記事については、「学習院 (幕末維新期)」の概要を参照ください。
- 尊攘運動と学習院のページへのリンク