尊攘急進派と公武合体派の対立とは? わかりやすく解説

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尊攘急進派と公武合体派の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:51 UTC 版)

公武合体」の記事における「尊攘急進派と公武合体派の対立」の解説

井伊暗殺後老中首座には安藤信正就任した安藤らは井伊政権時から検討されてきた孝明天皇の妹和宮将軍家茂の結婚推進し朝廷との連合公武合体をもって権威修復試みた天皇侍従岩倉具視らの献策を受け、幕府による将来攘夷期待して和宮降嫁受け入れる(実際婚儀1862年文久2年))。しかし、この政略結婚はかえって尊王攘夷派刺激し安藤水戸浪士襲われ負傷程なく失脚した坂下門外の変)。 幕府公武合体政策推進する中、雄藩は自藩の政治的発言力を高めることを狙って公武間の周旋乗りだした。和宮降嫁後の1862年4月薩摩藩幕府を旧一橋派大名との協調路線へと復帰させるため、藩主の父で最高実力者である島津久光が自ら兵を率いて上洛する。久光朝廷幕府への勅使派遣強硬に要求勅使大原重徳とともに江戸へ赴き、一橋慶喜将軍後見職に、松平慶永政事総裁職就けることに成功した文久の改革)。久光の上に際して安政の大獄により処分されていた山内容堂(前土佐藩主)らも宥免された。また、久光上洛時に自藩の尊攘急進派粛清し(寺田屋騒動)、急進派との対決姿勢明確にした。 一方、旧一橋派一線を画す長州藩は、井伊暗殺後幕府に「航海遠略策」を掲げて接近し公武周旋図った。これは積極通商により国力高め将来攘夷目指すという開明的なものであったが、周旋結果的に失敗した1862年文久2年)には一転して破約攘夷通商条約破棄対外戦争覚悟)を藩論採用し長州藩京都中心に激化する尊王攘夷運動盟主となった。「天誅」と称するテロリズム吹き荒れる中、攘夷掲げ孝明天皇及び、長州薩摩土佐各藩尊攘急進派公武合体派公家制して朝廷動かし1863年文久3年1月上洛した徳川家茂攘夷実行確約させるに至った3月には松平慶永政事総裁職辞任久光・容堂らも退京するなど、公武合体派退潮が明らかとなった。 これに対し薩摩藩会津藩らと結託して実力行使により尊攘派公家長州藩らを朝廷から一掃した八月十八日の政変)。こののち朝命により幕府老中一橋慶喜将軍後見職)・松平容保京都守護職会津藩主)に加え松平慶永山内容堂伊達宗城(前宇和島藩主)・島津久光らの参加による参預会議成立し雄藩諸侯政治参加制度化実現した

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