尊攘急進派と公武合体派の対立
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「公武合体」の記事における「尊攘急進派と公武合体派の対立」の解説
井伊暗殺後、老中首座には安藤信正が就任した。安藤らは井伊政権時から検討されてきた孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の結婚を推進し、朝廷との連合(公武合体)をもって権威の修復を試みた。天皇は侍従岩倉具視らの献策を受け、幕府による将来の攘夷に期待して和宮降嫁を受け入れる(実際の婚儀は1862年(文久2年))。しかし、この政略結婚はかえって尊王攘夷派を刺激し、安藤は水戸浪士に襲われ負傷、程なく失脚した(坂下門外の変)。 幕府が公武合体政策を推進する中、雄藩は自藩の政治的発言力を高めることを狙って公武間の周旋に乗りだした。和宮降嫁後の1862年4月、薩摩藩は幕府を旧一橋派大名との協調路線へと復帰させるため、藩主の父で最高実力者である島津久光が自ら兵を率いて上洛する。久光は朝廷に幕府への勅使派遣を強硬に要求、勅使大原重徳とともに江戸へ赴き、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に就けることに成功した(文久の改革)。久光の上洛に際して、安政の大獄により処分されていた山内容堂(前土佐藩主)らも宥免された。また、久光は上洛時に自藩の尊攘急進派を粛清し(寺田屋騒動)、急進派との対決姿勢を明確にした。 一方、旧一橋派と一線を画す長州藩は、井伊暗殺後の幕府に「航海遠略策」を掲げて接近し、公武周旋を図った。これは積極通商により国力を高め、将来の攘夷を目指すという開明的なものであったが、周旋は結果的に失敗した。1862年(文久2年)には一転して破約攘夷(通商条約破棄、対外戦争覚悟)を藩論に採用し、長州藩は京都を中心に激化する尊王攘夷運動の盟主となった。「天誅」と称するテロリズムが吹き荒れる中、攘夷を掲げる孝明天皇及び、長州・薩摩・土佐各藩の尊攘急進派が公武合体派公家を制して朝廷を動かし、1863年(文久3年)1月、上洛した徳川家茂に攘夷実行を確約させるに至った。3月には松平慶永が政事総裁職を辞任、久光・容堂らも退京するなど、公武合体派の退潮が明らかとなった。 これに対し、薩摩藩は会津藩らと結託して、実力行使により尊攘派公家・長州藩らを朝廷から一掃した(八月十八日の政変)。こののち朝命により幕府老中・一橋慶喜(将軍後見職)・松平容保(京都守護職、会津藩主)に加え、松平慶永・山内容堂・伊達宗城(前宇和島藩主)・島津久光らの参加による参預会議が成立し、雄藩諸侯の政治参加の制度化が実現した。
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