勅使派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 21:27 UTC 版)
事故の情報は、当日のうちに大正天皇の耳に達した。そして急遽、天皇の代理たる勅使派遣が決定された。侍従の澤宣元男爵が勅使に任命され、勅使来村は12月22日と伝えられた。この知らせが新聞で報じられると、炭鉱のみならず方城村全体が緊張に包まれた。三菱合資会社の岩崎久彌会長は東京本社から方城に向かい、現場で奉迎準備を陣頭指揮した。炭鉱や坑夫長屋では大掃除が行われ、道路は徹底した清掃が行われた。聖旨伝達の会場に指定された伊方尋常小学校の校舎前には白砂をまき、勅使の通路には布が敷かれた。勅使一行は12月21日朝に列車で東京駅を出発、およそ30時間をかけ船と汽車を乗り継ぎ、翌22日午後2時に最寄の金田駅に到着した。当日は雨の中、筑豊地方の各町長や村長、議員らが駅頭で一行を出迎えた。道路沿いには児童生徒およそ千人が傘もささずに並び、教師の「最敬礼!」の号令で一行の車に頭をさげた。伊方小に到着した澤勅使は、講堂で御救恤金(見舞金)を県知事に手渡し「このたびの非常は、お国のために戦って戦死したのと同じである」との聖旨が伝えられた。下賜された御救恤金の2千円や義捐金は分配され、遺族の手に渡された。行列した1千人あまりの児童には、鉛筆1本ずつが下賜されたと伝えられる。
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