靖国神社が描かれた文物とは? わかりやすく解説

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靖国神社が描かれた文物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:58 UTC 版)

靖国神社」の記事における「靖国神社が描かれた文物」の解説

紙幣 靖国神社描いた紙幣として小額政府紙幣がある。これは1938年昭和13年以降日本政府50硬貨使われていた銀を戦略物資として温存するために、富士山描いた昭和13年銘のある政府紙幣置き換えたのである。この紙幣では凹版印刷用いられていたが、1942年昭和17年になって通貨需要増大したため、民間凸版印刷株式会社製造させ、その際靖国神社を描く紙幣変更された。 この紙幣は、硬貨発行年と同様に1942年昭和17年)から1945年昭和20年)まで4つ発行年号記載されている。また最初昭和17年銘は凸版5色刷り高級な印刷方法用いていたが、最後昭和20年銘(実際に戦後になった翌年発行)は印刷用い資材枯渇のためオフセット印刷切り替えられている。靖国神社描かれてはいるがGHQからは大目にみられて発行流通続けられたが、硬貨発行されるようになったために1948年昭和23年8月31日を以て廃止された。 郵便切手 靖国神社描いた郵便切手4種類発行されている。そのうち普通切手としては、17切手1943年昭和18年2月21日発行)、27切手1945年昭和20年2月2日発行)、1円切手1946年昭和21年3月ごろ発行)の3種発行されている。いずれも書留料金用の高額切手であったが、戦時中のため印刷粗悪である。最後1円切手戦後になって発行されたが、これは戦時中計画されたものが製造および配給遅れたために戦後になって発行されたものである通常切手発行告示官報によって行われるが、当時の他の切手同様に告示待たず発売された。このため、公式にいつ発売されたかは現在も不明である(上記年月最初に確認されたもの)。また1円切手用紙粗悪であるうえ、目打や裏糊もなかった。これは、製造工程簡略化というだけでなく、印刷局戦災にあったため、機械自体使用できない状態に追い込まれていた事情もあってのことだった。 7銭(発行時の封書基本料金同額切手1944年昭和19年6月29日に「靖国神社鎮座75周年」を記念して発行され記念切手であったが、戦時体制下であったため、通常の記念切手サイズではなくそれよりも小さな普通切手サイズ発行された。なお印方法戦時中としては異例グラビア印刷であった靖国神社切手は「少年航空兵」や「戦闘機飛燕」など戦意高揚のためにデザインされた他の切手とともにGHQによって「超国家主義的[要曖昧さ回避]かつ軍国主義的」と判断され1947年昭和22年)に既に在庫無かった7銭記念切手を除く3種通称追放切手」として使用禁止処分がとられた。 風景印 郵便局郵便切手押印する消印のうち、その郵便局近辺風物等を描いた風景印風景入通信日付印)があるが、九段郵便局風景印には靖国神社拝殿描いている。使用開始1952年昭和27年5月10日であるが、同じ日に麹町郵便局も同じ図案風景印使用開始している。ただし、麹町郵便局1983年昭和58年7月26日から日本武道館を描く図案変更しており、九段郵便局だけが靖国神社に縁のある図案の風景印を現在も使用している。この消印公印ではあるが、個人でも葉書基本料金2019年以降63円)以上の額面切手もしくは官製葉書提示すれば記念押印に応じてもらえるし、郵便物押印して差し出すことも出来る。 歌謡軍歌戦時歌謡等) 「靖國神社の歌」 「同期の桜」 「靖国神社で逢おうじゃないか」 「九段の母」(塩まさる二葉百合子ほか) 「東京だョおっ母さん」(島倉千代子) 「ガイコクジンノトモダチ」(ゆず) 書物武江〔ぶこう〕年表 続編斎藤幸成著 〔近代デジタルライブラリ国会図書館) にて「武江年表で検索正編続編在り江戸周辺出来事綴ってある。編者徳川家斉将軍同時代江戸神田斎藤幸成(さいとうゆきしげ、号:月岑(げっしん))で、他に『江戸名所図会』を完成させ、『東都歳時記』を著している。1881年明治14年)に長男喜之助甫喜山景雄の手増補改訂されたものが刊行された。 江戸時代町人視点から、招魂社での祭祀の後の、祭りについて書かれている祭礼時には町屋飾り付けられ神楽祝砲花火相撲踊り競馬などの催しがあり、練り物出た祭礼期間外でも境内興行の場となり、市も開かれるなど、江戸町人商人から明治時代入ったばかりの人々によって現代でいう遊園地のような様子となっている。所々に「貴賎群集」ったとも記述されている。 <一部引用>明治二年: 夏の頃より、九段坂上馬場の後へ招魂社創立あり。是は近年諸国ならびに近在東京上野、其外戦争のみぎり、報国尽忠ともがら戦士亡魂を慰給はんとの御沙汰として、此御造営ありけるよしなり。 『木戸日記』、『廣澤日記』木戸日記』は招魂社発案者社地内に住んでいた木戸孝允によって書かれ、『廣澤日記』は長州財閥大物参議広沢真臣によって書かれた。双方とも、招魂社土地遣り取り等、主に政治行政面での記述見られる。 『靖国神社誌』山内雄編纂、1905年明治38年10月31日出版近代デジタルライブラリ国会図書館)での閲覧佐賀西南戦争から日露戦争に至るまでに合祀された十萬同朋対す国民誠意をもった慰霊心掛け期待して神社あらまし公にする、とされている。 内容は、神霊合祀内容神霊数)、神宝大和錦赤地青地一巻御紋章付金灯籠一対宝剣:數振、宝鏡:數面)、祭式宮司中心とした祭式手順などの詳細)、正遷宮の式、御祭文ごさいもん:元は「宣命せんみょう〕」と言われ天皇陛下によって御使い立てられ御祭りの際に、勅使霊前読み上げる文章)、招魂祭詞、皇室神社神社の沿革神社奉仕宮人境内の建物境内庭園九段〔さくら〕、神社軍人神社国民神社奉仕者の歌、編纂趣旨、の構成となっている。 『靖國神社誌』 寺内正毅斎藤実宮司賀茂百樹共著1911年明治44年出版近代デジタルライブラリ国会図書館)での閲覧1909年明治42年)に靖国神社第三宮司着任した山口県出身賀茂百樹が、官庁文書関係者からの聞取り日誌などから著作編集したが、明治12年以前記録は特に乏しいとしている。 内容としては、勅使派遣に関する記述売却地、予算規模に関する記述等、原資料当時の他資料とは違う点も多く見られる著者主観による記述散見される市場出回る書籍研究などは、この『靖國神社誌』を元に書かれ書物少なくない靖国神社創設はじまりは、招魂社である。招魂祠、あるいは、招魂場など呼んでいたことも在る招魂場とは、神霊を招く斎場の名で、招魂社招魂祠とは、その招いた神霊祭祀する祠社である。靖国神社には、本殿とは別に招魂斎庭設けてあり、神霊合祀する際には必ず、先ずその神霊招魂場招き奉りその上で神殿に遷〔うつ〕して鎮祭するのを通例としていた。 1879年明治12年6月4日に、別格官幣社として列せられ、それと共に靖国神社改称された。 『吾輩は猫である)』 夏目漱石1905年明治38年)から2年間、雑誌ホトトギス』に連載され夏目漱石の『吾輩は猫である』では、幼い女の子達の会話に、それぞれが「招魂社に嫁に行く」と話しているシーンがある。当時は既に「靖国神社」と改称されているはずであるが、古い名で馴染まれていた様子が窺(うかが)える。 『東京の三十年』田山花袋 1917年大正6年)の出版である、田山花袋の『東京三十年』には、「招魂社」で年に二回春秋に行われる見世物小屋屋台どの様子が書かれているポスター 1871年(明治4年)招魂社境内ニテ フランス大曲

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