九段
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九段(くだん)は、東京都千代田区にかつてあった町名。現在でも地域名として使われている。靖国神社、日本武道館、千鳥ヶ淵、旧江戸城田安門、清水門、北の丸公園がある。本項目では由来となった九段坂(くだんざか)についても述べる。
- ^ 旧平川。江戸時代には神田川が新たに開削されてお茶の水方面に本流が移り、切り離された下流域(日本橋川)は俎橋の先で「堀留」となっていた。明治以後、再び飯田町の旧流域を開削してつながる。
- ^ 坪内祐三『靖国』(新潮社、1999年)
- ^ 『富士見地区“まちの記憶・まちの暮らし”探索ガイドブック』(富士見地区町会連合会コミュニティ活性化事業実行委員会〈千代田区役所富士見出張所〉編、2011年)
- ^ 1933年(昭和8年)4月25日東京市告示第216号、東京市麴町区『麹町区史』1295ページ、1935年
- ^ 1967年(昭和42年)1月19日自治省告示第13号「住居表示が実施された件」
- ^ 江戸名所図会 九段坂.
- ^ 現在の実践倫理宏正会本部あたりまで丘の上となっており、そこから九段下まで一気に下降する坂道であった。縄文時代には坂の下が波打ち際であり、丘の上には貝塚が形成された。「牛ヶ淵貝塚」の記念碑が九段会館構内に現存する。
- ^ 「九段坂の急勾配を改修する工事近く開始」『東京日日新聞』1925年4月22日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.492 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 震災復興計画の中で、靖国通りが新たに拡幅・整備され、九段坂も緩勾配に直された。現在九段上から九段下まで続く靖国通りに面する靖国神社の石垣は、この時に造成されたもので、旧地形は石垣の上面にあたる。このとき、拡幅され、緩勾配となった九段坂には、靖国神社の参道と同時にイチョウ並木が造成されたが、落葉が市電の軌道に詰まり、その油分で電車が空転して坂を上がれなくなったことから、並木は半分撤去されたという。
- ^ 九段坂の常灯明台は、もともと灯台として造られたのではなく靖国神社への献灯として建てられ、後に造られた鋼管製の巨大な一の鳥居とともに、遠方から目印となるように考えられたものである。九段坂上は、江戸時代から観月や、隅田川の花火を見渡せるビューポイントとして有名であった。
九段坂
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江戸時代までは九層の階段となっており、徒歩でしか通行できない道であった。明治以後、段差を廃して坂道となったが、見上げるような急傾斜であったため、荷車を上げることは相当困難であった。そこで、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受けており、荷車を押すことによってなにがしかの報酬を得ていたという。 市電を建設する際にも、当時の技術では九段坂の急傾斜に線路を敷設することは不可能で、堀端の牛ヶ淵沿いに緩勾配の専用軌道を設置して、ようやく電車を九段上まで通すことができた。 九段坂のシンボルとなっている「常灯明台」は、もとは靖国神社入口(旧偕行社、日本住宅公団本部跡)にあったが、震災復興計画による靖国通りの拡幅にともない、通りの南側、田安門入口に設けられた九段坂公園の現在地に移された。旧地であれば、江戸城内堀を通して大手町方面を一望する位置にあり、東京湾から見えたという伝承もうなづける。
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