鎮魂
(慰霊 から転送)
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鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。
津城寛文は、著書『折口信夫の鎮魂論』(春秋社、2012年)で、鎮魂とは神道の根本となる、一般に考えられているよりももっと大きな思想で、折口の有名なマレビト論も鎮魂論で置き換えられる、と主張している。
鎮魂祭
鎮魂祭とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。
関連項目
慰霊
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アメリカ合衆国大統領ベンジャミン・ハリソンは1890年に「シスキノーウ」を公的な用途に使うものと指定した。1972年10月18日、「アラスカにおけるトリンギット族とロシアの経験を記念するために」戦場跡にシトカ国定歴史公園が設立された。今日、トリンギット族の犠牲者の栄誉を称え、「シスキノーウ」の地に「カルヤーン・ポール」(トーテムポール)が建てられている。戦いで戦死したロシア軍水兵の記念のために、「タ・エートル」がロシア軍が上陸したインディアン川の向こう岸に置かれている。2004年9月、戦いから200年を記念して両軍の戦闘員の子孫が集い、トリンギット族の伝統的な「泣きの儀式」を行って、亡くなった先祖を公式に弔った。翌日、キクスアディは、悲しみの2世紀を「取り払う」和解の儀式を行った。
※この「慰霊」の解説は、「シトカの戦い」の解説の一部です。
「慰霊」を含む「シトカの戦い」の記事については、「シトカの戦い」の概要を参照ください。
「慰霊」の例文・使い方・用例・文例
- 禎子の友人達は、彼女と原爆でなくなったすべての子供達の慰霊碑を建てたいと思った。
- さくを設ける[慰霊碑を建てる].
- 12月15日,ワドル元艦長は愛媛県の宇和島水産高校を訪れ,犠牲者の慰霊碑に花を供えた。
- 毎年3月10日,海老名さんは空襲の犠牲者を追悼するため,東京都の慰霊碑を訪れていた。
- しかし,彼女は,年々慰霊碑を訪れる人の数が減少しているのを見て,心配するようになった。
- 5月1日,水(みな)俣(また)病の最初の公式確認後50周年を迎え,熊本県水俣市で慰霊式が行われた。
- 8月12日の晩,遺族とJALの社長を含む社員,計246人が山のふもとで行われた慰霊式に参列した。
- 慰霊式で,上野村の村長は「事故を風化させることのないよう活動を続けることが我々の使命だ。」と述べた。
- 参加者たちは山を約800メートル登り,この惨事の慰霊碑にたどり着いた。
- ハチ公の慰霊祭が行われる
- 4月8日,74回目のハチ公慰霊祭がハチ公像の前で行われ,人々は彼の冥(めい)福(ふく)を祈った。
- 像を手掛けた彫刻家の安藤士(たけし)さんと像の題字を書いた羽(は)島(しま)敦(あつ)子(こ)さんはともにこの慰霊祭に出席した。
- 彼の最初の慰霊祭は1936年4月8日に行われた。
- その後,1986年の事故の犠牲者のための慰霊碑に花が供えられた。
- 約1万羽の折り鶴から作られた灯(とう)籠(ろう)が8月6日に原爆投下の犠牲者のための慰霊祭で使用された。
- この祭りは,東日本大震災の犠牲者を慰霊し,災害から復興しようと奮闘している人々を元気づけるために開催されている。
- 訪れた人たちは慰霊碑と墓標にたどり着くまで800メートルほど登った。
- 夕方に行われた慰霊式では,亡くなった人々を追悼するため,520本のろうそくに火がともされた。
- 後に,八田さんは彼らの栄誉をたたえるために慰霊碑を建てました。
- 両陛下は戦闘で亡くなった日米の兵士のための慰霊碑に花を供えられた。
慰霊と同じ種類の言葉
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