おり‐づる〔をり‐〕【折(り)鶴】
おりづる〔をりづる〕【折鶴】
折鶴
折り鶴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:10 UTC 版)
1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時の折り紙には小さい大きさの物が無く、紙の質も悪かったので、小さい鶴は、折りやすい、小さな薬の包み紙のセロファンなどを用いて折る事が多かった。1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。 死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「2千以上のようです」と語っている(2010年2月22日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。 2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈されることとなった。また、2010年からはトルーマン元大統領の親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が寄贈された。 原爆の子の像 碑の上に佐々木禎子の像がある
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「折り鶴」の例文・使い方・用例・文例
- 私は病気の母の為に折り鶴を作りました。
- 私は母の為に折り鶴を作りました。
- これは折り鶴と言います。
- これは折り鶴と言って、折り紙という紙で作った鶴です。
- 私たちはその紙の鶴を折り鶴と呼びます。
- 今禎子にできることは、折り鶴を折って奇跡を願うことだけだった。
- 私は「願い事をするとき,日本人は折り鶴を折ります。」と話しました。
- すると,人々は私と一緒に折り鶴を折り,日本語で応援メッセージを書いてくれました。
- 折り鶴を再利用
- 広島市は,同市にある平和記念公園の原爆の子の像に届けられる折り鶴を活用するためのアイデアを募集している。
- それらの折り鶴は人々の平和への願いを表している。
- 1000万羽以上の折り鶴が毎年,世界中から広島に届けられる。
- 同市は2002年からすべての折り鶴を保管している。
- 今年4月までに,保管されている折り鶴の数は1億1000万羽を超えた。
- 先日,広島市長が保管されている折り鶴を活用することを決めた。
- 約1万羽の折り鶴から作られた灯(とう)籠(ろう)が8月6日に原爆投下の犠牲者のための慰霊祭で使用された。
- また,折り鶴は2枚のモザイク画を作るのに使われた。
折り鶴と同じ種類の言葉
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