攘夷論の過激化とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 攘夷論の過激化の意味・解説 

攘夷論の過激化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 23:55 UTC 版)

攘夷実行の勅命」の記事における「攘夷論の過激化」の解説

これに前後して幕政を有力大名参加する合議制転換する動き長州藩薩摩藩起きる。長州藩では長井雅楽通商により国力高めて皇威海外振るう」という内容の『航海遠略策』をまとめてこれが藩論となり、文久元年1861年5月朝廷提出される孝明天皇その内容評価し幕府側の安藤信正好意示した。しかし信正は翌文久2年1月に、水戸藩浪士らの襲撃坂下門外の変)により負傷する。これ以降土佐藩薩摩藩では「破約攘夷」を求め急進的な動き高まり7月には長州藩藩論破約攘夷転換した。これらの動きには、天皇の意に沿って(再)鎖国攘夷実現するという志向があり、尊王論と結びついた尊王攘夷路線であった。もっとも、長州藩長井雅楽に代わって藩論主導した周布政之助意見は「いったん攘夷後に(日本主体性持った条約を結び直して開国する」というもので、「鎖国への復帰」という天皇朝廷浪士などの主張とは一線を画していた。とはいえ外国との武力衝突も辞さず、「皇基立てんと欲す」(政之助の所懐表現)という長州藩の「破約攘夷」論は、そうした勢力には親和的なものであり、朝廷長州藩接近していった。 一方薩摩藩島津久光藩主の父)は、文久2年1862年4月京都上り朝廷許し得て過激な攘夷論者を討つ(薩摩藩志士粛清事件傍ら朝廷と組む形で幕府改革求め動き起こす将軍家茂幕政改革着手し久光とともに江戸到着した勅使大原重徳伝えた天皇意向に沿い、一橋慶喜将軍後見職松平慶永(春嶽)を政事総裁職といった要職就けた慶喜と慶永らは就任後8月天皇指示尊重した幕政約する文書提出して朝廷幕府の関係は激変した。さらに、大名参勤交代大きく緩和したうえに、水戸藩に対して戊戌密勅認めたことで、将軍家大名統制低下して、「朝廷から大名への指示」を許す形になった。 「破約攘夷」に転換した長州藩は、朝廷支援与えながら急進的攘夷論浸透させ、朝廷では「公武合体派」と見られ九条尚忠関白)や岩倉具視らが失脚した。彼らの失脚朝廷内の急進的攘夷公家による「四奸二嬪排斥運動」と呼ばれる動きよるものだった。久光朝廷に「外国戦争になれば勝ち目はない」と破約攘夷反対する建白朝廷提出したが、受け入れられなかった。京都その周辺では急進的攘夷浪士によるテロ7月以降続発する孝明天皇は閏8月18日公家たちに攘夷に関する意見求め三条実美数人今は軍備拡充優先すべきとしたものの、即時攘夷求め公家が8人、その他の多く公家天皇意向に従うとのみ回答し急進的攘夷論止めることはできなかった。朝廷では幕府勅使出して攘夷実行命じるべきとする意見浮上し長州藩土佐藩加えて薩摩藩もこの件に関して同調し9月21日勅使派遣決定する

※この「攘夷論の過激化」の解説は、「攘夷実行の勅命」の解説の一部です。
「攘夷論の過激化」を含む「攘夷実行の勅命」の記事については、「攘夷実行の勅命」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「攘夷論の過激化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

攘夷論の過激化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



攘夷論の過激化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの攘夷実行の勅命 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS