攘夷論の過激化
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これに前後して、幕政を有力大名も参加する合議制に転換する動きが長州藩や薩摩藩で起きる。長州藩では長井雅楽が通商により国力を高めて「皇威を海外に振るう」という内容の『航海遠略策』をまとめてこれが藩論となり、文久元年(1861年)5月に朝廷に提出されると孝明天皇はその内容を評価し、幕府側の安藤信正も好意を示した。しかし信正は翌文久2年1月に、水戸藩浪士らの襲撃(坂下門外の変)により負傷する。これ以降土佐藩や薩摩藩では「破約攘夷」を求める急進的な動きが高まり、7月には長州藩も藩論を破約攘夷に転換した。これらの動きには、天皇の意に沿って(再)鎖国と攘夷を実現するという志向があり、尊王論と結びついた尊王攘夷路線であった。もっとも、長州藩で長井雅楽に代わって藩論を主導した周布政之助の意見は「いったん攘夷後に(日本が主体性を持った)条約を結び直して開国する」というもので、「鎖国への復帰」という天皇・朝廷や浪士などの主張とは一線を画していた。とはいえ、外国との武力衝突も辞さず、「皇基を立てんと欲す」(政之助の所懐の表現)という長州藩の「破約攘夷」論は、そうした勢力には親和的なものであり、朝廷と長州藩は接近していった。 一方、薩摩藩の島津久光(藩主の父)は、文久2年(1862年)4月に京都に上り、朝廷の許しを得て過激な攘夷論者を討つ(薩摩藩志士粛清事件)傍ら、朝廷と組む形で幕府に改革を求める動きを起こす。将軍の家茂も幕政改革に着手し、久光とともに江戸に到着した勅使の大原重徳が伝えた天皇の意向に沿い、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永(春嶽)を政事総裁職といった要職に就けた。慶喜と慶永らは就任後の8月に天皇の指示を尊重した幕政を約する文書を提出して、朝廷と幕府の関係は激変した。さらに、大名の参勤交代を大きく緩和したうえに、水戸藩に対しては戊戌の密勅を認めたことで、将軍家の大名統制は低下して、「朝廷から大名への指示」を許す形になった。 「破約攘夷」に転換した長州藩は、朝廷に支援を与えながら急進的攘夷論を浸透させ、朝廷では「公武合体派」と見られた九条尚忠(関白)や岩倉具視らが失脚した。彼らの失脚は朝廷内の急進的攘夷派公家による「四奸二嬪排斥運動」と呼ばれる動きによるものだった。久光は朝廷に「外国と戦争になれば勝ち目はない」と破約攘夷に反対する建白を朝廷に提出したが、受け入れられなかった。京都やその周辺では急進的攘夷派浪士によるテロが7月以降続発する。孝明天皇は閏8月18日に公家たちに攘夷に関する意見を求め、三条実美ら数人は今は軍備拡充を優先すべきとしたものの、即時攘夷を求める公家が8人、その他の多くの公家は天皇の意向に従うとのみ回答し、急進的攘夷論を止めることはできなかった。朝廷では幕府に勅使を出して攘夷実行を命じるべきとする意見が浮上し、長州藩や土佐藩に加えて薩摩藩もこの件に関しては同調し、9月21日に勅使派遣が決定する。
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