攘夷派諸侯の退京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
「八月十八日の政変」の記事における「攘夷派諸侯の退京」の解説
両池田(因州・備前)・蜂須賀(阿波)・上杉(米沢)は政変前から朝議への参与を命ぜられる存在となっており、長州の処分について彼ら攘夷派諸侯は寛大な処置を求めていたが、朝廷の対応は冷淡であった。失望した彼らは9月下旬から10月中旬にかけ藩地の警衛などを理由に相次いで帰国した。 そもそも池田慶徳ら攘夷派諸侯の中央政局への進出は、朝廷を始めとして攘夷論が沸騰する情勢に乗じた機会主義的な面が大きかった。彼らは攘夷親征論を非難しつつ、攘夷に消極的な幕府も因循と批判し、攘夷委任の立場から積極的に攘夷を主導するよう幕府に周旋することで、薩越土退京後の京都で政治的存在感を上昇させてきた。しかし、独自の政治構想があったわけではなく、天皇の攘夷意志を確認した幕府が再び横浜鎖港談判を開始したことで、彼らの存在感は失われることになった。 攘夷委任の態度を取っていた島津久光・松平春嶽・山内容堂らも政変後に召命を受け、攘夷派諸侯の退京と入れ代わるように入京してきた。まず久光が藩兵1700を率いて10月3日に入京した。過激な攘夷親征派が一掃されたことで、彼らは本来の開港論の姿勢を明らかにし始めた。久光・春嶽らの勢いが強まると、帰国した池田茂政は、上京した薩越らの説を破るのは到底難しいが、今さら攘夷はよろしくない、開国がよろしいと言うわけにもいかず、といって他に良い考えもないと、実兄池田慶徳に書き送っている(12月4日付書簡)。もっともその久光・春嶽らも、慶徳・茂政の兄弟である一橋慶喜のために、やがて再び中央政局から遠ざかることになる。
※この「攘夷派諸侯の退京」の解説は、「八月十八日の政変」の解説の一部です。
「攘夷派諸侯の退京」を含む「八月十八日の政変」の記事については、「八月十八日の政変」の概要を参照ください。
- 攘夷派諸侯の退京のページへのリンク