攘夷論への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:56 UTC 版)
嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、訥庵の尊王攘夷論は過激になっていく。外夷を打ち払うことを幕府に建言し、全国的に注目されるようになった。嘉永6年10月、徳川斉昭に「隣疝臆議」を送り、攘夷の所論の実行を迫る。安政3年(1856年)には思誠塾を小梅村(現在の東京都墨田区向島)へ移転した。これは前年の安政の大地震により塾が倒壊したためである。安政4年(1857年)には『闢邪小言』を刊行し、この中で朱子学の立場から西洋文明を厳しく批判し、多くの人々の共感を得ることとなった。安政5年(1858年)、安政の大獄において処刑された儒学者の頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、門弟とともに小塚原刑場まで行き、三樹三郎の遺体を棺に納め埋葬している。
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