黒船来航以降
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1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリーの率いる軍艦が浦賀沖に現れ朝野は騒然とし、土佐でも沿海岸における国防の機運が高まった。 1854年2月20日(嘉永7年1月23日)丑の下刻、ペリーの2度目の来航の際、ペリー艦隊は100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃った。備前藩はこれを威嚇射撃と解し「砲弾の一部が洲崎を警護する備前岡山藩陣地の10メートルほど手前の海中に落下した」と主張して非常召集を行い大砲5門を以って黒船に砲撃した事件が起きる。 この事件を受けて、1854年2月21日(嘉永7年1月24日)、土佐藩では、明神善秀が山内容堂より、安芸郡奉行を仰せ付けられ、異国船打払い御用を仰せ付けられた。 1864年6月4日(元治元年5月1日)、当役兼外輪物・指物御用を仰せ付けられる。同年12月29日(元治元12月1日)病死。
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