明治維新150周年 (2018)以降
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「明治維新」の記事における「明治維新150周年 (2018)以降」の解説
2018年(平成30年)10月23日、明治維新150周年を記念して政府は式典を憲政記念館で開いた。10月23日は明治へ改元された日であり、1968年の明治百年祭も同日に開催された。安倍晋三首相(当時)は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。明仁天皇(現上皇)と美智子皇后(現上皇后)は、政府が招待せず、参列しなかった。 2017年から2018年にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、三谷博『維新史再考』、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』などがある。 経営学者米倉誠一郎は『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(東洋経済新報社、2017年)で激動の維新において創造的対応をなした人物に注目し、高島秋帆がアヘン戦争で危機感を高めて、西洋砲術の研究をし、モルチール砲を輸入し分解模造(リバースエンジニアリング)を行ったことや、大隈重信が秩禄処分において、士族の俸禄を数年分の合算総額に7%の利子を付けた公債を発行(バウチャー制度)を生み出して生活を保障、同時に旧士族が起業や農工商への転職できるように士族授産政策も実施したこと、笠井順八が日本に存在しなかったセメント製造をベンチャー事業として行ったこと、三野村利左衛門が三井家に外部から入り、祖業の呉服商を三越家に分割し、三井銀行を設立し、三井財閥を中興させたこと、また同じく外部から登用された益田孝が三井物産を設立したこと、岩崎彌太郎が三菱商船学校や三菱商業学校を設立し、人的資源を確保するなど多角的事業体の三菱財閥を発展させたことなどを讃えた。 明治維新150周年については、批判や警告も多く、歴史学者奈良勝司は、明治日本では、武力(国力)の底上げへの奉仕を国民が強いられたと総括し、『明治の精神』への回帰とは、日本賛美による癒やしであり、「アトラクション化させた過去の消費」やご都合主義的に加工した歴史への逃避では、未来の展望につながらないと警告した。平和学者木村朗は「明治翼賛の最大の問題は、自国に不都合な歴史的事実の忘却」にあるとし、近代日本は「アジアで唯一の帝国主義国家」となり、アジア諸国への侵略、会津藩の悲劇や、アイヌ・琉球への差別は明治維新の歪みだとする。女性史研究家加納実紀代は、明治日本は女性の抑圧を国家の制度として確立したとし、民法で女性を準禁治産者扱いし、高等教育や政治参加を禁じたと指摘し、明治150年記念行事は、明治以後の歴史を肯定一辺倒に染める恐れがあり、一方的な歴史認識が定着しないよう注視する必要があると警告した。元学生運動家で科学史家の山本義隆は『近代日本150年』(2018年)で「科学技術総力戦」という角度から日本の近代を論じた。ジャーナリストの斎藤貴男は、政府主導の明治維新記念行事は、時の政府(長州藩につながる第4次安倍内閣)礼賛に繋げようとしていると疑念を表明している。 記者リチャード・カッツは、「明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人はなぜ、維新150周年を祝賀しないのか」と疑問に思い、調査すると、明治維新を戦争時代の暗い歴史と結び付けて考えている日本人が少なくなかったという。日本近代史研究のピーター・ドウスは、明治維新が「民主主義や経済的繁栄ではなく、日本を超国家主義や植民地支配の拡大、すなわち破滅へと導いていったと考えている日本人は多い」と指摘する。 日本思想史研究の苅部直は『「維新革命」への道』(2017)において、マルクス主義歴史学の遠山茂樹などのような、明治維新による文明開化を政府が上から強引に西洋化を進め、庶民にとっては迷惑であったとするような評価は、事態の一部しか捉えていないと批判し、公儀の瓦解と新政府の発足は、人々にとって生活全体に及ぶ束縛からの解放と感じられ、また西洋化もその動きの一環として歓迎されたと述べている。苅部によれば、人民の側に立つ歴史学を標榜する遠山茂樹は、庶民が文明開化を求め、楽しんだ実態には触れようとしないが、それは、遠山が戦時中の1944年の論文「水戸学の性格」で、孝明天皇による「仁慈限りなき御叡慮」による幕藩封建体制の改革で、「一君万民の我が国体の精華」が「革新力」となると論じたことへの苦い反省があったのではないかと指摘している。また、文明開花以前の古い日本に憧れるロマンティシズムや、薩長の暴虐を強調する幕臣びいき・江戸っ子びいきの歴史観も、遠山と同様に、民衆に共感することを標榜しながらも、当時の民衆が文明開花を楽しみ、欲望の発散の機会が多くなることを願ったという実態について書かないような「民衆不在」の罠にはまっていると苅部は批判する。 政治史研究の北岡伸一は『明治維新の意味』(2020年)で、明治維新は既得権益を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた民主化革命、自由化革命、人材登用革命であったとする。北岡によれば、江戸時代に国政に参加できたのは、将軍と譜代大名で構成された幕閣であり、親藩と外様大名は排除されていたが、黒船来航以降、雄藩や朝廷も国政に参加するようになり、特に下級武士を登用した薩長が台頭した。その後の維新でこれらの下士出身の官僚らは、自藩を含む藩を全廃し、武士を含む身分制度さえも廃止した。初代内閣総理大臣になった伊藤博文は農民(足軽)の出自であったが、江戸時代には政治への発言も許されない身分であった。さらに西南戦争以後の自由民権運動を経て、内閣制度が確立すると、豪農や内戦中は朝敵とされた東北出身者の政治参加も盛んになり、1890年には信越東北の国会議員が誕生し、1918年には盛岡藩出身の原敬が総理大臣になった。地租改正によって中世以来の石高制も廃止、田畑の売買も自由になった。職業選択も自由とされ、身分を超えた教育精度も導入された。 日本思想史研究の子安宣邦は『「維新」的近代の幻想』(2020年)で明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判した。
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