石高制
石高制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
戦国期には、銅貨や米に加えて金や銀の流通が増加して貨幣状況が複雑となった。織田信長は永禄の法令である撰銭令・精銭追加条々で、京都において米を商取引に使うことを禁じつつ、金銀の商取引を認めて銅貨との交換比率を定めた。米による現納を正確にするために、京都の十合枡を公定枡として採用して、これはのちの豊臣政権にも引き継がれる。公定枡による度量衡の統一は、米の価値尺度としての信用を高めたため、結果として石高の信用につながった。 貫高制と検地の関係は、豊臣秀吉によって石高制と検地へと変更される。秀吉は太閤検地が古代の検田を継承するとして、天皇のもとでの国家事業として位置づけた。そして美濃検地をはじめとして、貫高制から石高制への切りかえをすすめた。秀吉は、天皇に献上する検地帳である御前帳を石高で提出するように諸大名に求めて、全国で石高制の成立がすすんだ。秀吉の要求は、石高制による軍役の編成と大陸出兵が理由とされている。石高制が優勢となった背景には、領主の政策もあった。貫高制の進展は農民の離農や欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとり、江戸幕府にも継承された。
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石高制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 02:24 UTC 版)
詳細は「石高制」を参照 中世末期から近世の終わりにかけての日本では、土地の総合的生産力を石に換算した数量が「石高」として明示されており、これは地域ごとの勢力や領地の大きさを表す指標ともなっていた。石高の差は、戦時の動員力や経済力の優劣に関わるものであった。詳しくは該当項目を参照のこと。
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