撰銭令
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撰銭令(えりぜにれい)とは、室町時代、室町幕府や大名などが撰銭を禁止するもの。室町時代前後、商品経済の発達に伴って貨幣の流通が著しく増えて税の銭納化も進められていた。貨幣は従来の宋銭に加えて明銭が併用されており、需要が増えるにしたがって悪質な私鋳銭や粗悪な渡来銭も流通し、民衆が取引においてこのような悪銭を嫌ったために良銭を撰ぶ撰銭がおこなわれ、円滑な流通が阻害されていた。
- ^ 高木久史『日本中世貨幣史論』(校倉書房、2010年)P133-169
- 1 撰銭令とは
- 2 撰銭令の概要
撰銭令
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輸入銭は断続的に減少した。足利義持による日明貿易の断絶や、明の海禁政策、加えて産銅の減少から明の鋳造も低調となったことが原因である。国内では硬貨の不足によって撰銭を巡るトラブルが絶えず、撰銭を制限するための撰銭令が出されるようになる。中世の撰銭令は15世紀後半から頻発し、1485年から1582年までの主な撰銭令は55回にのぼる。撰銭令の内容は、(1)納税における銭種の指定、(2)売買における銭種の指定、(3)貸借における銭種の指定、(4)売買における買い手の購買力の保証などがあった。統治者にとって撰銭は治安を乱す行為と見なされ、撰銭令の罰則は生命刑(死罪)や財産刑(私宅没収)など厳しかった。1540年代前半から1560年代半ばの西日本は撰銭令が沈静化しており、原因として、日本での銀生産の増加と、明の銀財政の影響で輸入銭が増えた点がある(後述)。 撰銭令に登場する悪貨として、うちひらめ、さかひ銭、ほろ、焼銭(やけせん)、ゑみやう、大欠(おおかけ)、破(われ)、磨り、南京、京銭(きんせん)などがある。銅貨不足が解消されないため撰銭が続き、代わりに物品貨幣である米の普及が進んだ。撰銭令も米の普及に影響しており、16世紀後半の畿内では撰銭令の発布から2、3年後に米での支払いが増えている。
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