発行の経緯とは? わかりやすく解説

発行の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 18:16 UTC 版)

アッシニア」の記事における「発行の経緯」の解説

フランス王財政危機フランス革命直接引き金となったが、革命以後もそれは改善するどころかより一層深刻化した。ネッケル財務長官復帰したが、すぐに無力ぶりをさらけ出したからである。革命フランス国家の信用低下させたので、彼が発行した3,000リーヴル公債には買い手がつかずに、わずか250リーヴル応募があっただけだった財政は、割引銀行(ケース・デスコント) (fr:Caisse d'escompte) からの借款、つまり公衆貸し付けることができなかった公債銀行家に引き取らせて強制流通させることによって、国庫の不足を肩代わりさせていた。しかしすでに銀行券1億1,400リーヴル発行されており、その内の2,750リーヴル無担保で、信用貸し国家保証依存しているのみで、金銀塊の保有額は法定限度4分の1以下まで減りこれ以上割引銀行から資金捻出させることは不可であった。ところが、民衆への食糧供給のためにすぐに外国から大量小麦を買わねばならなかった。 また1789年8月4日の夜の宣言間接税廃止され歳入減少したが、土地台帳不備で、それに代わる新税(直接税)の徴収上手くいっていなかった。税は順調に徴収されたとしても5億リーブルに満たなかったが、特権廃止補償直接的に負担10億リーヴル以上も膨らんだ債務総額累積分と合わせて42億6,200リーヴル(ただしこの内15億ほどは健全な債権)にも及び、その利子だけで年に2億6,200リーヴル計算されたのに、11月2日教会財産国有令の結果およびその後法令1790年3月17日4月17日法令)で、国家が払うべきとされた教会礼拝額として7,000リーヴル僧侶達への年金5,000リーヴルが、さらに歳出加えられた。ブルボン王家所有する貴金属喩え全てを鋳潰してもこれには遠く及ばなかったので、このように膨らんだ支出対応するには紙幣の発行以外に方法はなかった。 11月14日ネッケル割引銀行国立銀行中央銀行)とすることを提案した。これによって資金運用円滑にし、2億4,000リーヴル国家保証され新銀行券を発行しようとしたのである。しかし憲法制定議会ジョン・ローシステム失敗思い出してこの提案退けた支払い能力のない国家では保証がないのと同じで、保証のない新紙幣価値持たない考えたのである一方で紙幣の発行避けられなかったので、1ヶ月前のタレーラン提案思い出され活用棚上げとなっていた国有化され教会土地財産売却益担保とすることが決議された。 1789年12月19日憲法制定議会財産管理機関として非常割引金庫立ち上げた手始め年金支払いあての財源として、発行額4億リーヴルとするアッシニア紙幣発行始めた。これは200リーヴル300リーヴル、1,000リーヴル三種類の土地債券で、利子が5%付いていた。販売対象投資する特定の資本家一般向けではなかった。第一回アッシニアは、回収予定立てられていて、そもそも支払い財源となる教会土地財産というのは評価額30リーブル楽にあったので、非常に控えめ発行であった。しかし当時はまだ教会土地僧侶たちが住んでおり、抵当権取り除かれていないので土地売却見込み立たないという理由で、買い手はなかなかつかなかった。アッシニア流通上手くいかないことがわかると、資金繰り見通しの不安から、割引銀行の銀行券の価値大きく下がり、逆にルイ金貨 (Louis d'or) には30スープレミアム付いた。 そこで議会は、第一回発行アッシニア廃止して土地交換可能な兌換紙幣のような新しアッシニアとして再発行することにした。1790年4月17日発行され第二回アッシニアは、300リーヴル、1,000リーヴル高額補助紙幣で、利子は3%以上は付けられず、利息年末最後所有者支払われ途中所有者にも転売の際に日割計算保有期間の分が価格割増されて支払われる予定だった。土地兌換ということは実質的に土地売却同じだったが、目に見える保証付いたことでアッシニア信用力増し確かな紙幣として流通し始めた。こうなると議会はこれで負債返済しようと考えた宙に浮いていた教会土地財産売却一気進めることもできるはずだった。もはや利子必要なかった。利子があることで(利子支払いのために)負債いつまで残りつづけ、実際不動産売却阻害されると考えられたからである。評決結果518票対423票で(国有地抵当とするという注釈付きだが、事実上紙幣としてのアッシニア創設決まった1790年9月29日無利子アッシニア発行され発行額も12リーヴルまで増やされた。今度積極的に国家債務償還当てられるようになった。ところが購入者年賦で一割を払えば良かったため、1年間歳入増加最大でも1億2,000リーヴルに留まった。アッシニアは本来は支払い完了して国庫戻ったらば焼き捨てられ臨時紙幣であったはずだが、この計画では少なくとも12年間は流通し続けることを意味した発行その後続いたので、償却期間はさらに長くなって、次第に全く見通しが立たなくなった

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発行の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/19 14:31 UTC 版)

秋田禎信BOX」の記事における「発行の経緯」の解説

元々、秋田自身管理するwebサイトモツ鍋悲願」の雑記ページにて、2008年9月4日から始めた不定期連載作品あいつがそいつでこいつがそれで」として、秋田代表作魔術士オーフェン はぐれ旅シリーズ(全20巻)の続編秋田自身は「続編ではなく「その(最終巻)後の設定」としている)を掲載したのが始まりである。 同作品は、元々魔術士オーフェン最終巻のエピローグとされていたが、「ここまで書いちゃうのは野暮だし、収まりが悪いよなあと思って削除した」という理由発表されなかった。その後各種完結した富士見ファンタジア文庫作品群後日談を描くという同文20周年企画依頼を受け、「“お祭りみたいなもん”ならば」とこの作品書き上げた企画消滅単体での刊行打診されたが、前述理由に基づき拒否しサイト日記更新穴埋め用として登場人物置き換えた上で不定期連載することとした。 連載が始まると、ブログや一部のネット記事等で話題となり、秋田本人にも書籍化を望む声が届いたようで、秋田反響驚いているとし、角川書店グループ)との付き合い今でもあるため、正式な作品にすることは簡単と思われるが、何のための物語かという理由作品の方向性)が思い浮かばず、「目標のない物語は少し不幸」として、正式な作品として刊行についての考えがないとする表明2008年9月28日分の雑記綴っていた。 しかし、あまりの反響ぶりと、ある編集者からの挑発に、「“お祭りみたいなもん”としてであれば」、ということ企画されたものである。 そして、未収録作品掲載され雑誌等募集原稿所在不明作品)・別途書き下ろし欲しオーフェン外伝公式サイトアンケートをとるなどし、書き下ろし未収録作品集めた秋田禎信BOX」としてTOブックスより販売されることとなった第一巻の「キエサルヒマの終端」「約束の地で」は2011年オーフェン新シリーズ開始の際、それぞれに通常の単行本として発売された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/28 09:11 UTC 版)

久米島紙幣」の記事における「発行の経緯」の解説

沖縄地上戦通じて久米島はほとんど攻撃されなかったが、沖縄本島組織的抵抗終息したため、周辺の島々同様にアメリカ軍侵攻作戦開始した。そのため久米島にいた日本軍守備隊精神的パニック起こし住民虐殺詳細久米島守備隊住民虐殺事件参照のこと)したが、ほとんど組織的抵抗出来ないまま占領された。久米島派遣軍を率いE・L・ウッド・ウイルソン少佐久米島米軍政府設置し軍政府長官として久米島行政掌握した。彼は島内家屋3分の1弱しか焼失しておらず、沖縄本島のように生活基盤破壊されわけではないとして、無償援助物資支給され沖縄本島避難民キャンプとは違い援助物資アメリカ軍対す労務対価として支給することに決定したしかしながら久米島軍政府手持ち日本円なければ軍票連合国用意したB円軍票)を使用する権限もなかったため、軍政府急遽物資引換券製造し労賃として支払うことにした。そのため経済担当のラシター大尉謄写版原版タイプライター必要事項打ち込んで作成し印刷した用紙大尉サイン記入した引換券製造した日当は3円とし、援助物資引き換えることができたという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:30 UTC 版)

寛永通宝」の記事における「発行の経緯」の解説

江戸幕府成立すると、幕府金座銀座設置して金貨銀貨発行して統一進めた一方銅銭については、慶長13年1608年)に江戸中心とした東国通用していた永楽通宝永楽銭)の発行停止し翌年には金1両=永楽銭1貫文京銭4貫文=銀50目の公定相場定めて京都中心に流通していた"京銭"の通称呼ばれていた鐚銭という私鋳銭幕府標準銅貨とされた。これは、徳川拠点であった東国幕府領対象にした撰銭令一種であった五街道整備によって江戸上方京都・大坂)の交通整備図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭通用止めて京銭を基に銅銭統一図ったものであったまた、徳川家康秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動影響東海道筋の伝馬駄賃相場は不安定であり、銅銭大量流通による撰銭頻発していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府慶長13年方針延長線上にある撰銭令複数発令している。こうした方針徳川氏同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭発行していた諸藩直ち拘束するものではなかったが、幕府政治的優位確立と共にその政策にも影響与えつつあった。京銭対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパ商船日本朱印船によって中国東南アジア輸出されていた。この大量輸出日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場上昇させた。 平戸オランダ商館にいたフランソワ・カロン著した日本大王国志』の寛永13年1636年)の記述寛永通宝発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際相場より高い価格買い入れていたと記している。また、寛永11年1636年)には徳川家光の上洛に合わせて京都滞在していた細川忠利面識のある長崎奉行榊原職直送った書状(『大日本近世史細川家史料』18-2507号)の中で家光戸田氏鉄松平定綱に対して新銭発行検討命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年1635年6月には幕府流通貨幣全国調査行い諸大名に対して貨幣流通状況報告させている。安国良一は幕府家光上洛合わせて江戸において贈答用新銭鋳造して京都持ち込んだものの、京都郊外坂本大量銅銭鋳造され海外輸出されていることを知った家光幕閣衝撃受けて既存流通銭である旧銭を買い上げ新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年1635年)の朱印船貿易停止には銅銭輸出止める意図含んでいた可能性同年武家諸法度改正によって導入され参勤交代によって交通量増加街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している。 寛永13年5月5日幕府江戸において6月1日より寛永通宝発行する高札立て7日京都・大坂にこの命令伝えるために派遣され高札持った幕府徒目付20日大津到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭併用認めていたが、5月6日高札立てられ翌日老中酒井忠勝邸において諸藩の留守居集めて行った説明会では旧銭の使用停止する方針説明されたらしく、この話を聞いた諸藩とりわけ自前私鋳銭鋳造していた藩(長州藩薩摩藩など)には動揺広がったものの、幕府十分な流通量寛永通宝用意することができず、幕府自身東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに遠江掛川大坂にあった幕府にある古銭京銭)を放出することを決め大番方の久留正親小幡重昌が派遣され東海道の各宿に100貫文バイパス役割果たしていた中山道西側および美濃路の各宿には60貫文支給し城下町などの特殊な需要のある宿には上乗せ支給行った。さらにやや遅れて銅銭不足の最大原因になっていた銅銭含めた輸出禁止措置寛永通宝鋳造材料確保名目寛永14年1637年4月から開始し途中で軍事物資確保目的変えながら、輸出統制仕組み整備される正保3年1646年)まで続けられた。

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発行の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 03:21 UTC 版)

金円券」の記事における「発行の経緯」の解説

1948年8月19日国民党中央政治会議開催し翁文灝王雲五から提出され通貨改革案を了承したその夜蒋介石により「財政経済緊急令」が全国公布され同時に金円券発行法」が下記内容施行された。 金円券は1元を金0.22217mgとの等価交換とし、中央銀行限度額20億元で発行する 金円券1元との交換比率法幣300元,東北流通30元とする 個人の金、プラチナ外貨保有禁止し所持者は9月30日まで金円券換金すること。違反者財産没収とする。 全国物価8月19日水準凍結する これと同時に蒋介石経済督導員を各大都市派遣し金円券発行監督した。特に金融の中心地であった上海には息子蒋経国を副督導として派遣し上海経済状況掌握した金円券発行当初法律上没収規定効果示し小規模資産階級中心に貯蓄していた貴金属外貨金円券兌換された。同時に行なった物価凍結政策は、商人8月19日以前価格物資提供するように迫り値上げ売惜しみ禁止した資本家政府圧力やむを得ず資産金円券兌換した。しかし、この指示従わない資本家当局逮捕され殺害されることさえあり、当局にこの問題殺害され資本家100名を超えると言われている。蒋経国金円券改革では上海厳格な法律運用行い、それで僅かではあるが金円券民衆信用取り戻した

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