発行の経緯
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フランス王室財政の危機がフランス革命の直接の引き金となったが、革命以後もそれは改善するどころかより一層深刻化した。ネッケルは財務長官に復帰したが、すぐに無力ぶりをさらけ出したからである。革命はフランス国家の信用を低下させたので、彼が発行した3,000万リーヴルの公債には買い手がつかずに、わずか250万リーヴルの応募があっただけだった。財政は、割引銀行(ケース・デスコント) (fr:Caisse d'escompte) からの借款、つまり公衆に貸し付けることができなかった公債を銀行家に引き取らせて強制流通させることによって、国庫の不足を肩代わりさせていた。しかしすでに銀行券は1億1,400万リーヴルも発行されており、その内の2,750万リーヴルは無担保で、信用貸しは国家の保証に依存しているのみで、金銀塊の保有額は法定限度の4分の1以下まで減り、これ以上は割引銀行から資金を捻出させることは不可能であった。ところが、民衆への食糧供給のためにすぐに外国から大量の小麦を買わねばならなかった。 また1789年8月4日の夜の宣言で間接税が廃止されて歳入は減少したが、土地台帳の不備で、それに代わる新税(直接税)の徴収が上手くいっていなかった。税は順調に徴収されたとしても5億リーブルに満たなかったが、特権廃止の補償で直接的に負担は10億リーヴル以上も膨らんだ。債務総額は累積分と合わせて42億6,200万リーヴル(ただしこの内の15億ほどは健全な債権)にも及び、その利子だけで年に2億6,200万リーヴルと計算されたのに、11月2日に教会財産国有令の結果およびその後の法令(1790年3月17日と4月17日の法令)で、国家が払うべきとされた教会礼拝額として7,000万リーヴル、僧侶達への年金5,000万リーヴルが、さらに歳出に加えられた。ブルボン王家の所有する貴金属は喩え全てを鋳潰してもこれには遠く及ばなかったので、このように膨らんだ支出に対応するには紙幣の発行以外に方法はなかった。 11月14日、ネッケルは割引銀行を国立銀行(中央銀行)とすることを提案した。これによって資金運用を円滑にし、2億4,000万リーヴルの国家保証された新銀行券を発行しようとしたのである。しかし憲法制定議会はジョン・ローのシステムの失敗を思い出してこの提案を退けた。支払い能力のない国家では保証がないのと同じで、保証のない新紙幣は価値を持たないと考えたのである。一方で、紙幣の発行は避けられなかったので、1ヶ月前のタレーランの提案が思い出され、活用が棚上げとなっていた国有化された教会土地財産の売却益を担保とすることが決議された。 1789年12月19日、憲法制定議会は財産管理機関として非常割引金庫を立ち上げた。手始めに年金支払いあての財源として、発行額4億リーヴルとするアッシニア紙幣の発行を始めた。これは200リーヴル、300リーヴル、1,000リーヴルの三種類の土地債券で、利子が5%付いていた。販売対象は投資する特定の資本家で一般向けではなかった。第一回のアッシニアは、回収予定も立てられていて、そもそも支払い財源となる教会土地財産というのは評価額30億リーブルは楽にあったので、非常に控えめな発行額であった。しかし当時はまだ教会の土地に僧侶たちが住んでおり、抵当権が取り除かれていないので土地の売却の見込みが立たないという理由で、買い手はなかなかつかなかった。アッシニアの流通が上手くいかないことがわかると、資金繰り見通しの不安から、割引銀行の銀行券の価値は大きく下がり、逆にルイ金貨 (Louis d'or) には30スーのプレミアムが付いた。 そこで議会は、第一回発行のアッシニアを廃止して、土地と交換可能な兌換紙幣のような新しいアッシニアとして再発行することにした。1790年4月17日に発行された第二回のアッシニアは、300リーヴル、1,000リーヴルの高額の補助紙幣で、利子は3%以上は付けられず、利息は年末に最後の所有者に支払われ、途中の所有者にも転売の際に日割計算で保有期間の分が価格に割増されて支払われる予定だった。土地兌換ということは、実質的には土地の売却と同じだったが、目に見える保証が付いたことでアッシニアは信用力が増し、確かな紙幣として流通し始めた。こうなると議会はこれで負債を返済しようと考えた。宙に浮いていた教会土地財産の売却を一気に進めることもできるはずだった。もはや利子は必要なかった。利子があることで(利子の支払いのために)負債はいつまでも残りつづけ、実際の不動産の売却も阻害されると考えられたからである。評決の結果、518票対423票で(国有地を抵当とするという注釈付きだが、事実上)紙幣としてのアッシニアの創設が決まった。 1790年9月29日、無利子アッシニアが発行され、発行額も12億リーヴルまで増やされた。今度は積極的に国家債務の償還に当てられるようになった。ところが購入者は年賦で一割を払えば良かったため、1年間の歳入の増加は最大でも1億2,000万リーヴルに留まった。アッシニアは本来は支払いが完了して国庫に戻ったらば焼き捨てられる臨時紙幣であったはずだが、この計画では少なくとも12年間は流通し続けることを意味した。発行はその後も続いたので、償却期間はさらに長くなって、次第に全く見通しが立たなくなった。
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発行の経緯
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元々、秋田自身が管理するwebサイト「モツ鍋の悲願」の雑記のページにて、2008年9月4日から始めた不定期連載作品「あいつがそいつでこいつがそれで」として、秋田の代表作『魔術士オーフェン はぐれ旅』シリーズ(全20巻)の続編(秋田自身は「続編」ではなく「その(最終巻)後の設定」としている)を掲載したのが始まりである。 同作品は、元々魔術士オーフェン最終巻のエピローグとされていたが、「ここまで書いちゃうのは野暮だし、収まりが悪いよなあと思って削除した」という理由で発表されなかった。その後、各種完結した富士見ファンタジア文庫作品群の後日談を描くという同文庫20周年企画の依頼を受け、「“お祭りみたいなもん”ならば」とこの作品を書き上げたが企画が消滅。単体での刊行を打診されたが、前述の理由に基づき拒否し、サイトの日記更新の穴埋め用として登場人物を置き換えた上で不定期連載することとした。 連載が始まると、ブログや一部のネット記事等で話題となり、秋田本人にも書籍化を望む声が届いたようで、秋田は反響に驚いているとし、角川書店(グループ)との付き合いは今でもあるため、正式な作品にすることは簡単と思われるが、何のための物語かという理由(作品の方向性)が思い浮かばず、「目標のない物語は少し不幸」として、正式な作品として刊行についての考えがないとする表明を2008年9月28日分の雑記で綴っていた。 しかし、あまりの反響ぶりと、ある編集者からの挑発に、「“お祭りみたいなもん”としてであれば」、ということで企画されたものである。 そして、未収録作品が掲載された雑誌等の募集(原稿所在不明作品)・別途書き下ろして欲しいオーフェンの外伝を公式サイトでアンケートをとるなどし、書き下ろし・未収録作品を集めた「秋田禎信BOX」としてTOブックスより販売されることとなった。 第一巻の「キエサルヒマの終端」「約束の地で」は2011年のオーフェン新シリーズ開始の際、それぞれに通常の単行本として発売された。
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発行の経緯
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沖縄地上戦を通じて久米島はほとんど攻撃されなかったが、沖縄本島の組織的抵抗も終息したため、周辺の島々と同様にアメリカ軍は侵攻作戦を開始した。そのため久米島にいた日本軍の守備隊は精神的パニックを起こし住民を虐殺(詳細は久米島守備隊住民虐殺事件を参照のこと)したが、ほとんど組織的抵抗も出来ないまま占領された。久米島派遣軍を率いるE・L・ウッド・ウイルソン少佐は久米島米軍政府を設置し、軍政府長官として久米島の行政を掌握した。彼は島内の家屋の3分の1弱しか焼失しておらず、沖縄本島のように生活基盤が破壊されたわけではないとして、無償で援助物資が支給された沖縄本島の避難民キャンプとは違い、援助物資をアメリカ軍に対する労務の対価として支給することに決定した。しかしながら久米島軍政府は手持ちの日本円もなければ、軍票(連合国が用意したB円軍票)を使用する権限もなかったため、軍政府は急遽物資の引換券を製造し労賃として支払うことにした。そのため経済担当のラシター大尉は謄写版原版にタイプライターで必要事項を打ち込んで作成し、印刷した用紙に大尉のサインを記入した引換券を製造した。日当は3円とし、援助物資と引き換えることができたという。
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発行の経緯
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江戸幕府が成立すると、幕府は金座・銀座を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた。一方、銅銭については、慶長13年(1608年)に江戸を中心とした東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、京都を中心に流通していた"京銭"の通称で呼ばれていた鐚銭という私鋳銭が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした撰銭令の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・大坂)の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、徳川家康・秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動の影響で東海道筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭が頻発していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた。 平戸のオランダ商館にいたフランソワ・カロンが著した『日本大王国志』の寛永13年(1636年)の記述に寛永通宝の発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際の相場より高い価格で買い入れていたと記している。また、寛永11年(1636年)には徳川家光の上洛に合わせて京都に滞在していた細川忠利が面識のある長崎奉行の榊原職直に送った書状(『大日本近世史料 細川家史料』18-2507号)の中で家光が戸田氏鉄と松平定綱に対して新銭発行の検討を命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年(1635年)6月には幕府は流通貨幣の全国調査を行い、諸大名に対しても貨幣の流通状況を報告させている。安国良一は幕府は家光上洛に合わせて江戸において贈答用の新銭を鋳造して京都に持ち込んだものの、京都郊外の坂本で大量の銅銭が鋳造されて海外に輸出されていることを知った家光や幕閣が衝撃を受けて、既存の流通銭である旧銭を買い上げて新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年(1635年)の朱印船貿易停止には銅銭の輸出を止める意図も含んでいた可能性や同年の武家諸法度改正によって導入された参勤交代によって交通量の増加や街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している。 寛永13年5月5日、幕府は江戸において6月1日より寛永通宝を発行する高札を立て、7日に京都・大坂にこの命令を伝えるために派遣された高札を持った幕府の徒目付が20日に大津に到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭の併用を認めていたが、5月6日(高札が立てられた翌日)老中の酒井忠勝邸において諸藩の留守居を集めて行った説明会では旧銭の使用を停止する方針が説明されたらしく、この話を聞いた諸藩、とりわけ自前で私鋳銭を鋳造していた藩(長州藩・薩摩藩など)には動揺が広がったものの、幕府も十分な流通量の寛永通宝を用意することができず、幕府自身が東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに遠江掛川と大坂にあった幕府の蔵にある古銭(京銭)を放出することを決め、大番方の久留正親・小幡重昌が派遣され、東海道の各宿に100貫文・バイパスの役割を果たしていた中山道西側および美濃路の各宿には60貫文を支給し、城下町などの特殊な需要のある宿には上乗せの支給を行った。さらにやや遅れて銅銭不足の最大の原因になっていた銅銭を含めた銅の輸出禁止措置を寛永通宝の鋳造材料の確保を名目に寛永14年(1637年)4月から開始し、途中で軍事物資の確保に目的を変えながら、輸出統制の仕組みが整備される正保3年(1646年)まで続けられた。
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発行の経緯
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1948年8月19日、国民党は中央政治会議を開催し翁文灝、王雲五から提出された通貨改革案を了承した。その夜、蒋介石により「財政経済緊急令」が全国に公布され、同時に「金円券発行法」が下記の内容で施行された。 金円券は1元を金0.22217mgとの等価交換とし、中央銀行が限度額20億元で発行する 金円券1元との交換比率は法幣300万元,東北流通券30万元とする 個人の金、プラチナ、外貨の保有を禁止し、所持者は9月30日まで金円券に換金すること。違反者の財産は没収とする。 全国の物価を8月19日水準で凍結する これと同時に蒋介石は経済督導員を各大都市に派遣し金円券発行を監督した。特に金融の中心地であった上海には息子の蒋経国を副督導として派遣し上海の経済状況を掌握した。 金円券の発行当初は法律上の没収規定が効果を示し、小規模資産階級を中心に貯蓄していた貴金属や外貨が金円券に兌換された。同時に行なった物価凍結政策は、商人に8月19日以前の価格で物資を提供するように迫り、値上げや売惜しみを禁止した。資本家は政府の圧力にやむを得ず資産を金円券に兌換した。しかし、この指示に従わない資本家は当局に逮捕され殺害されることさえあり、当局にこの問題で殺害された資本家は100名を超えると言われている。蒋経国も金円券改革では上海で厳格な法律の運用を行い、それで僅かではあるが金円券は民衆の信用を取り戻した。
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