発行に至る経緯とは? わかりやすく解説

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発行に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 14:25 UTC 版)

漢城旬報」の記事における「発行に至る経緯」の解説

1882年10月壬午事変後に締結され済物浦条約の公式な修信使として朴泳孝らが訪日した朴泳孝一行は、外務卿井上馨朝鮮借款訪日費用等について相談する一方で朝鮮改革唱えていた福澤諭吉とも会見福澤朝鮮独立啓蒙為に教育留学)と新聞発刊提案借款一部啓蒙教育利用することに同意した。これにより新聞発刊されることになり、後に徐載弼数十名も慶應義塾士官学校留学する運びとなった発刊準備手を貸した福澤は、新聞編集者として牛場卓蔵高橋正信、印刷工の三輪真田謙等を紹介し牛場らが雇い入れられた。 帰国した1883年1月漢城判尹(現在のソウル市長)に任命されると、新聞発行のための行動始め1883年2月には朝鮮国王から新聞発行許可下りた。しかし1883年4月朴泳孝朝鮮保守派からの反発から漢城判尹から解任され新聞も「政治改良」を訴え計画だったことで、新聞発行計画一時頓挫し雇用されていた日本人印刷工と途中から新聞発行計画参加していた福澤門下井上角五郎以外の日本人は、全員日本へ帰国することとなった朝鮮残った井上は、朴泳孝副官として訪日したことのある金晩穂の紹介により、金允植知り合い、允植は閔氏一族繋がりのある保守派ありながら開化派に近い思想持っていたため、井上は允植に新聞発行のための斡旋願い、允植の求めに応じて計画案作成していった。当初は、ハングル使用する予定であったが、漢文を「真書」とする保守勢力への妥協から、漢文使用することとなった1883年8月には日本から印刷機新聞用紙購入して近代的印刷設備整えた博文局」が設置されることになり、ここに井上翻訳編集実務責任者として、三輪真田印刷工として採用され(他に朝鮮人含めて計7名前後)、1883年10月30日博文局から『漢城旬報第1号発行される至った新聞発行計画実務日本留学から帰国した兪吉濬担当した

※この「発行に至る経緯」の解説は、「漢城旬報」の解説の一部です。
「発行に至る経緯」を含む「漢城旬報」の記事については、「漢城旬報」の概要を参照ください。

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