発行と経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:41 UTC 版)
律令制下で皇朝十二銭が発行された目的としては、唐の開元通宝を手本とし、貨幣制度を整えるため、また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本来の価値と貨幣価値との差額で賄うためということが挙げられる。 和同開珎は、日本で実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のものである。これより古い貨幣とされるものに富本銭、 無文銀銭があるが、これは実際に流通したかどうか、貨幣として使われていたかどうかは諸説ある。和同開珎発行から3年後の711年には、貨幣を多く蓄えたものに位階を与えるとする蓄銭叙位令が発布された。蓄銭奨励と流通促進とは矛盾しているが、銭貨の流通を促進するために発令されたと考えられている。しかし、実際に位階を与えた記録は、同年11月の1例しか残っていない。当時の日本は米や布などの物品貨幣が一般的であり、社会経済水準が貨幣を必ずしも要していなかったため、畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったとも考えられる。また、仮に需要があったとしても、そもそも銅の生産量が絶対的に少なかった当時の日本では、実物貨幣に代わるだけの銅銭の製造は始めから困難であった(秩父黒谷における自然銅の発見を機に元号を「和銅」と改めてしまう程当時銅は貴重であり、また後述のように時代が下るにつれて急速に品質が悪化している)。ただし、発見地は北海道から熊本県まで全国各地におよんでいる。 和同開珎が発行されてから52年後、万年通宝への改鋳が行われた。この時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。この定めはその後の改鋳にも踏襲された。万年通宝は当時の実力者であった藤原仲麻呂が政権の誇示とその長久を願って発行し、次の神功開宝はその仲麻呂を滅ぼした称徳天皇と道鏡が自らの政権の正統性を示すために発行したとされ、経済への影響が考慮されない政治的な「大義名分」のための発行であった。 皇朝十二銭は改鋳を重ねるごとに大きさが縮小し、重量も減少、素材も劣悪化していった。当時の製錬法では利用できる銅資源が限られていたため、原材料の銅の生産量がーー年々低下したためである。もっとも、以降急激に劣悪化したとされている承和昌宝を基準として捉えると、その後の貨幣の大きさは承和昌宝から乾元大宝までほぼ一定であり、品質も寛平大宝まではほぼ同水準を保っていることから、承和昌宝を以降の銭貨の基準品質とする画期である、とみなす考えもある。 和同開珎が発行されて間もないころには、銭1文で米2kgが買えたが、9世紀中ごろには、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまった。延喜通宝や最後の乾元大宝は、銅銭ではなく鉛銭であると言われるほど鉛の含有量が高いものが多く存在する。価値の低下した銭は、流通と交易の現場から忌避されるようになり、宋銭が大量に流入する12世紀後半まで、日本国内での銭の流通は限定されたものとなった。
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