しかん‐がっこう〔シクワンガクカウ〕【士官学校】
読み方:しかんがっこう
「陸軍士官学校」の略。
士官学校
士官学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 15:16 UTC 版)
「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「士官学校」の解説
クラウゼヴィッツは少尉に任官した15歳からの6年間をノイルピーンで過ごす。当時の連隊長の考課表によれば、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。そこで連隊長は1801年にクラウゼヴィッツをベルリンの士官学校に送った。そこで後に「父でもあり、心の友であった」と評するシャルンホルスト中佐のもとで軍事学を学ぶ機会を得ただけでなく、シャルンホルストが非公式に設置した軍事学会に入会することができた。この学会は論文の審査によって入会が許され、時事的な軍事問題の解決や国防意識の発揚のための学術的な研究団体として組織された。クラウゼヴィッツはこの学会で学術研究の様式を習得し、数学、論理学、地理学、歴史学、文学の一般教養と軍事学の専門知識を深め、1803年に学校を首席で卒業した。卒業後はシャルンホルストの推薦もあって軍事学会の会員でもあったアウグスト親王が指揮する近衛大隊に副官として勤務することになった。クラウゼヴィッツは半年間の試験採用期間を経て正式に副官となってからは宮廷社会に入るようになる。この時期にクラウゼヴィッツはシラーの文学に親しみ、マキアヴェリやモンテスキューの著作を読み、カント哲学の講義にも出席している。後に詳述するマリー・フォン・ブリュールと知り合ったのもこの頃で、1805年に婚約している。
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士官学校
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帝国と同盟の両方に存在する軍隊の傘下教育機関。帝国では「帝国軍士官学校」、同盟では「国防軍士官学校」。4年間で軍隊の士官になるための教育を受け、通常は卒業すると少尉の階級で任官する。 同盟の士官学校の生徒は軍人に準じた扱いであるため、授業料や寄宿舎の費用などは一切無料だが、任官しなかったり何らかの理由で中途退学した場合、それまでかかった費用を全て返還しなければならない。ヤンが入学した士官学校は同盟首都星ハイネセンの隣の惑星テルヌーゼンにあり、エリートコースとされる「戦略研究科」、ヤンが当初入学したが在籍中に廃止された「戦史研究科」などの様々なコースが存在した。「戦略研究科」は倍率が高く、この科の入学試験に落ちた者が他の科に流れている模様である。カリキュラムは「戦史」、「戦略論概説」、「戦術分析演習」、「戦闘艇操縦実技」、「機関工学演習」、「射撃実技」に加え、「戦略戦術シミュレーション」も行われる。教官には現役軍人(同盟のチュン、ドーソン、帝国のシュターデン等)が就き、校長は中将階級の者が就く(ヤンが入学した際の校長はシトレ中将であった)。
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