割賦販売
(年賦 から転送)
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割賦販売(かっぷはんばい、わっぷはんばい)とは、売買代金の支払いを分割して支払うことを条件とした販売方式。支払間隔に応じて週賦・旬賦・月賦・年賦などの方法がある。消費者信用のうちの、販売信用の一つ。
先に代金を支払う前払い式と、あとから代金を支払う方式がある。
単に用途自由な借金などで資金を準備し、支払いをする方法もあるが、本稿では言及しない。
概要
古くから高価な土地や家屋の売買に用いられることがあったが、本格的に採用されるようになったのは、1807年にアメリカの家具販売業者「クーパースエイド・アンド・サン商会」が採用したのが最古の例とされている。1850年代以後、ミシンのシンガーや農機具のマコーミック(現在のケースIH)などが次々にこの方式を導入し、潜在需要はあるものの経済的事情によって購入が進まない商品の販売に役立つことになった。1919年にはゼネラルモーターズが割賦販売専門の金融会社を創設するなど、一般家庭にも割賦販売による耐久消費財の購入が進み、1920年代のアメリカの消費文化を支えることとなった。
日本における概要
日本では江戸時代に伊予国の桜井漆器(現在の愛媛県今治市で生産された漆器)を瀬戸内海沿岸に販売するために農閑期に「椀船」と呼ばれる船に漆器を乗せて販売し、翌年に代金を回収するという仕組が採られた。この仕組みをさらに進めて、漆器や呉服の月賦販売を開始したのが伊予出身の実業家田坂善四郎であった。こうした販売方式は西日本や上方で知られるようになり、明治に入り割賦販売を専門的に行う月賦百貨店が成立した[1]。月賦百貨店は当初は西日本を拠点としていたが、大正期に入ると東京方面にも進出を開始した。 小林一三は1910年に新しく開業する箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の沿線の池田にて月賦販売による住宅の分譲販売を行い成功を収めた。 1923年の関東大震災後の再建とアメリカの割賦販売による消費文化の情報到来が重なったこともあり、1920年代には新興中産階級を中心に割賦販売による耐久消費財の購入が盛んになった。
太平洋戦争開戦後、経済が統制され割賦販売はいったん姿を消す。だが、戦後になると国民の物への渇望、朝鮮戦争を契機とした特需による景気の回復、物価の安定などを背景に割賦販売は再び息を吹き返す。衣類不足を背景としたミシンの前払い式割賦販売など、耐久消費財を中心に割賦販売は盛んに行われていく[1]。
その後、割賦購入あっせんの発達に伴い、割賦販売は下火となっていく。また、前払い式割賦販売は当該販売を行っていた企業への倒産懸念などから割賦販売法により規制されるようになった[1]。
方式
後払い式
購入者が対象商品を手にした後、代金を分割して支払う形態。
比較的高額な耐久消費財(自動車、電気製品など)や不動産、各種サービス(指定自動車教習所、語学教室、エステティックサロンなど)を対象に、一般に広く行われている。
前払い式
購入者があらかじめ代金を分割して販売者に払い込み、一定の金額に達した時点で対象商品を受け取る形態。一般に積立購入とも呼ばれる形態。
戦後から1970年代までミシンや電気製品、寝具、冠婚葬祭費用(いわゆる互助会、友の会)などを対象に行われたが、会社が倒産し、払い込んだ代金が返金されず商品も引き渡されない事態が続発したため、法規制が強化されてこの形態は減少している。2019年時点では百貨店の友の会、大手旅行会社による旅行積み立てが一部に存在する。
その他
- 割賦という言葉は、割賦販売法から生まれた。当時の議論の中で「既に月賦という言葉が広く浸透しているのだからそれを使えばよい」という意見と「分割払いは年払いなどもあるから適切ではない」などの論争の末に、分割の割と月賦の賦を合わせて、割賦という言葉が生まれた。読み方は、「かっぷ」の他に「わっぷ」と読む場合もあったが、割賦販売法案の国会提出の際に「かっぷ」に統一された[1]。
- 分冊百科という販売方法は購入資金ではなく、百科事典という製品そのものを分割して販売する手法である。イタリアの出版社であるデアゴスティーニが、百科事典を分冊・再編集・廉価化し定期刊行したのが起源である。
- 日本で初めて月賦販売を開始したのは伊予商人の田坂善四郎が明治後期に九州で行ったものとされているが、実際には田坂よりも先に東京の鈴木篤右衛門が行っている。田坂の店で働いた店員たちがその後独立して月賦業界の重鎮となっていったため、月賦販売の第一人者は田坂というのが通説となった。
脚注
参考文献
- 川辺信雄「割賦販売」(『歴史学事典 1 交換と消費』(1994年、弘文堂、ISBN 4335210310)
- 須崎正太郎『田坂善四郎 戦前に愛媛・佐賀・福岡の地で活動し月賦制度の開祖と呼ばれた伊予商人』(2023年、NextPublishing Authors Press)
関連項目
年賦
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「リチャード・バセット」の記事における「年賦」の解説
選挙は10月の第1火曜日に行われた。1792年以前、デラウェア議会議員は10月20日に就任した。上院議員の任期は3年、下院議員の任期は1年間であった。1792年以後、州知事は一般選挙で選ばれ1月の第3火曜日に就任し、知事の任期は3年だった。デラウェア議会はアメリカ合衆国憲法制定会議の代議員を選出した。議会はアメリカ合衆国上院議員も選出し、3月4日に就任し通常は6年間の任期があった。しかし、バセットの任期はローテーションのために4年間だった。 Public Offices役職種類場所選出就任離任備考代議員 州会議 ドーバー 1776年8月29日 1776年9月20日 デラウェア州 デラウェア邦上院 議員 ニューキャッスル 1776年 1776年10月20日 1779年10月20日 デラウェア邦上院 議員 ドーバー 1779 1779年10月20日 1780年10月20日 デラウェア邦下院 議員 ドーバー 1780 1780年10月20日 1781年10月20日 デラウェア邦下院 議員 ドーバー 1781 1781年10月20日 1782年10月21日 デラウェア邦上院 議員 ドーバー 1782 1782年10月21日 1785年10月20日 デラウェア邦下院 議員 ドーバー 1786 1786年10月20日 1787年10月21日 代議員 会議 フィラデルフィア 1787年5月14日 1787年9月17日 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国上院 議員 フィラデルフィア 1789年3月4日 1793年3月3日 クラス2 代議員 州会議 ドーバー 1792年11月 1792年 6月12日 デラウェア州 主席判事 裁判官 ドーバー 1793年 1799年1月9日 一般訴訟裁判所 デラウェア州知事 行政官 ドーバー 1798年 1799年1月9日 1801年2月20日 辞任 判事 裁判官 ドーバー 1801年2月20日 1802年4月 連邦巡回裁判所 デラウェア邦議会 ''議員''年会期議会多数派知事委員会選挙区1776年/77年 第1会期 デラウエァ邦上院 政党なし ジョン・マッキンリー ケント郡 1777年/78年 第2会期 デラウエァ邦上院 政党なし ジョージ・リード ケント郡 1778年/79年 第3会期 デラウエァ邦上院 政党なし シーザー・ロドニー ケント郡 1779年/80年 第4会期 デラウエァ邦上院 政党なし シーザー・ロドニー ケント郡 1780年/81年 第5会期 デラウエァ邦下院 政党なし シーザー・ロドニー ケント郡 1781年/82年 第6会期 デラウエァ邦下院 政党なし ジョン・ディキンソン ケント郡 1782年/83年 第7会期 デラウエァ邦上院 政党なし ニコラス・ヴァン・ダイク ケント郡 1783年/84年 第8会期 デラウエァ邦上院 政党なし ニコラス・ヴァン・ダイク ケント郡 1784年/85年 第9会期 デラウエァ邦上院 政党なし ニコラス・ヴァン・ダイク ケント郡 1786年/87年 第11会期 デラウエァ邦下院 政党なし トマス・コリンズ ケント郡 アメリカ合衆国議会 ''議員''年会期院多数派大統領委員会クラス1789年-1791年 第1会期 アメリカ合衆国上院 政党なし ジョージ・ワシントン クラス2 1791年-1793年 第2会期 アメリカ合衆国上院 政党なし ジョージ・ワシントン クラス2 選挙結果年職務当選人党得票数%対抗馬党得票数%1798 デラウェア州知事 リチャード・バセット 連邦党 2,490 52% デイビッド・ホール 民主共和党 2,068 44%
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「年賦」の例文・使い方・用例・文例
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