共産党による通貨統一へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 07:11 UTC 版)
「中華民国期の通貨の歴史」の記事における「共産党による通貨統一へ」の解説
対日戦争勝利後、共産党に支配された地区の各地方政府は、それぞれ通貨統一の作業を始めていた。共産党は解放区ごとに発券銀行を設立して、「辺幣」を発行していたので、解放区の数が増えてくると、同じ地域で複数の「辺幣」と国民党の「法幣」が入り乱れて流通していた。そこで共産党は拡大した解放区ごとに「辺幣」をひとつに絞り、全てのローカル紙幣を回収しようとした。しかし、その作業が終了する前、1946年(民国35年)7月に国民党と共産党の全面的な内戦に突入したため、通貨統一は中断した。 詳細は「人民元#前史」を参照 1947年(民国36年)の夏には、共産党(人民解放軍)の勝利がほぼ確実な情勢となった。そのため、共産党は1948年12月1日、中国人民銀行(PBOC)を設立した。戦時中に中国共産党の革命根拠地にあった「華北銀行」(河北省石家荘)、「北海銀行」(山東省済南)、「西北農民銀行」(陝西省延安)の3行を合併させたものだった。12年間続いた悪性ハイパーインフレ下にあり、例えば上海では1949年6月から1950年2月までの間に卸売物価指数は約21倍となるなど、経済がほぼ崩壊した中での創設だった。 一方で、国民政府は、遡る1948年(民国37年)8月19日に、新たに「金元券」の制度を導入した。「金元券」の発行とともに、法幣などの旧通貨が回収されたが、交換率は、1「金元券」=300万元「法幣」だった。これと同時に物価を8月19日の水準に固定し、民間保有の金、銀および外貨を9月30日までに金元券に交換する仕組みだった。 詳細は「中国人民銀行#設立」および「金円券#発行の経緯」を参照 しかし、共産党軍の進出に伴う経済的不安により、国民政府は同年10月30日、凍結価格政策を全面的に放棄し、さらに11月11日には、「金元券」の価値を発行時の価値の5分の1に引き下げ、20億元だった発行限度も解除した。しかしその後も「金元券」の信用は暴落し続けたので、国民政府は、予算の現物査定、銀貨の鋳造、金銀の取引の許可などを余儀なくされた。翌1949年(民国38年)5月1日にはついに500万元券を発行した。上海が共産党軍の手に落ちた5月下旬ごろからは、各地で「金元券」の流通不能現象が生じた。「金元券」の価値は発行から10か月で紙切れ同然となり、「法幣」の二の舞を演じた末に1949年7月、銀円券に代替されて流通が終わる。 詳細は「金円券#改革の崩壊」および「国共内戦#形勢の逆転」を参照 その銀円券も華南地区が共産党の手に落ちたことで信用を失い、1949年10月の中華人民共和国建国宣言と同時に流通停止となり、中国大陸の通貨は人民元へと統一されることになった。 詳細は「人民元#初代人民元の発行とデノミネーション実行」を参照 一方、台湾では銀円券が流通せず、台湾省政府主導で新たに発行される新台幣へ移行することになり1949年6月15日から発行が開始されていた。 詳細は「ニュー台湾ドル#地域通貨」および「台湾銀行#中華民国統治時代」を参照
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